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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-1023 公訴訟 学園処分無効確認及び損害賠償請求事件
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第92話:彼女の家は

 机に両手をつき、ヴィクトールがゆっくりと身を起こす。その動作一つで、法廷の空気が張り詰めた糸のように引き絞られる。傍聴席から漏れ聞こえていた微かな衣擦れの音すら完全に消失し、被告席に座るブリッタの肩が小刻みに震え始める。


 これまで淡々と事実を積み上げていた男の空気が、ここに来て明確に変質した。


「整理しましょう。容疑は3つ」


 ヴィクトールの声が、一段階上の音量で空間に響き渡る。決して怒鳴っているわけではない。舞台上の役者が観客の鼓膜へ正確に台詞を届けるような、圧倒的な共鳴と質量を伴った声である。


「いじめはアリバイで崩れた」


「色恋沙汰は被害者が存在しない」


「成績の不正は生徒会の越権」


「証拠は筆跡が一致せず、日付が矛盾している」


 短い事実の羅列が、重々しい杭となって法廷に打ち込まれていく。ヴィクトールは被告席の正面へと歩み寄り、真っ直ぐに彼らを見据えた。


「——3つとも嘘です」


「では、なぜ嘘を3つも並べたのですか」


 間髪を入れない問いかけが、逃げ場のない刃となってアルベルトの喉元へ突きつけられる。これまで平静を装っていた彼の表情が、隠しきれない動揺で硬く強張っている。


「1つで足りなかったからです。嘘は数で補う。被告はそれを知っていた」


 ヴィクトールの鋭い視線が、主犯である生徒会長を正確に射抜く。あの大講堂で浴びせられた矢継ぎ早の弾劾は、正義の執行などではない。脆弱な嘘を束ねて暴力に変えようとした、悪意ある計画性に他ならなかった。


 クラウスがたまらず立ち上がる。学者としての矜持が、彼に最後の防衛線を張らせていた。


「生徒会は苦情を受けて調査し、報告会を開いた。手続きに多少の不備はあったとしても、目的は学内秩序の維持です。目的は正当です」


「正当な目的のために、味方を入場拒否し、証拠を捏造し、被害者を用意した。——目的が正当なら手段は問わないのですか。それは法治ではありません」


 ヴィクトールの声が法廷の空気を両断した。


 クラウスは微かに唇を震わせ、それ以上の言葉を紡ぐことなくゆっくりと席へ沈み込む。完璧な論理の断絶。学園の自治という名の正義は、法の前に崩れ去った。


 法廷は再び、水を打ったような深い沈黙に包まれる。


 一拍の空白。ヴィクトールがふっと短く息を吐き、まとっていた熱をすっと引かせていく。極限まで高められた緊張感の中、次なる一撃へ向けて決定的に声のトーンを落とす予兆だった。


◇◇◇


 ヴィクトールが小さく息を吐き出す。


 先ほどまで空間を支配していた劇場的な熱が、急速に引いていく。法廷を包み込んでいた圧倒的な圧力が嘘のように霧散し、代わりに静謐な冷気が足元から這い上がってくる。


 ヴィクトールは極限まで声のトーンを落とし、静寂に溶け込むような穏やかさで口を開いた。


「念のため申し上げます」


 ヴィクトールが視線を落とし、書類に触れていた指先をそっと離す。呼吸の音さえ消え去った空間で、誰もが次の言葉を待っている。


「原告アネッテ・フォン・リンデン。"リンデン"は母方の家名です。——父は、王国軍務卿アーロン・フォン・ガイエル公爵です」


 法廷の空気が完全に凍結する。


 アルベルトの顔からさっと血の気が引き、土気色に染まる。隣に座るブリッタの肩がガタガタと震え出し、両手で口を覆う。防衛線を完全に突破されたクラウスでさえ、目を細めて息を呑むのが見えた。


 アネッテは地方小貴族の娘などではなかった。


 傍聴席の最後列に鎮座していた異質な集団の正体を、ようやく全員が理解する。開廷の時から微動だにせず座り続けていた甲冑の男たちは、ガイエル公爵家の護衛兵だった。


「もし本件が法廷ではなく軍務卿の権限で処理されていたなら、この学園はどうなっていたでしょうね」


 ヴィクトールが、仮定の形をとって淡々と言葉を置く。


 重い木製の椅子が鳴る。


 最後列の甲冑の男たちが、一斉に腰を浮かせかけた。六人分の分厚い鎧が擦れ合う金属音が、高い天井に冷たく反響する。暴力の気配が、一瞬だけ法廷に立ち昇った。


 ヴィクトールがゆっくりと振り返る。そして、極めて穏やかな動作で手のひらを軽く広げた。


「ご静粛に願います。——裁判長閣下は学園側のお方だとしても、一度判事の席にお付きであれば公正な判断をお下しになります」


 男たちは動きを止め、ゆっくりと椅子に座り直す。だが、その兜の奥から放たれる視線は、もはや単なる傍聴者のそれではない。明確な監視の目となって、法壇の上の合議体を射抜いている。法廷の空気は不可逆的に変質していた。


 主席判事のテオドールは、その表情を一瞬だけ固まらせる。三十年の長きにわたり学園の法務を担ってきた彼をして、想定を遥かに超える事態だった。


「……本件は学内紛争の域を超えている」


 低く漏らした声に、陪席のリディアが無言で腕を組み直す。ルイーゼは手元の書類から顔を上げ、じっと原告席を見つめている。


 テオドールが視線を向けた。


「原告。なぜ法廷を選んだのですか」


 開廷から今まで、抜け落ちた表情のまま座り続けていたアネッテが、ゆっくりと動く。


 二ヶ月前、狂騒の大講堂で立ち上がることができなかった少女が、今、静かに立ち上がっている。


 背筋を伸ばし、法壇を真っ直ぐに見据えて、彼女の口が開く。


「父は怒っていました。婚約者も怒っています。ですが私は軍を動かして復讐したくありません。——だから法廷に来ました」


 声は小さい。


 だが、静まり返った法廷の隅々にまで、はっきりと通る。狂騒的な拍手や無責任な嘲笑の中でかき消されることのない、確かな声だった。


 誰も口を開かない。法廷の全員が、その小さな声の余韻を聞いている。


 ルイーゼが小さく瞬きをする。新しい段階へ踏み出した法廷は、決定的な静寂に包まれていた。


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― 新着の感想 ―
此れ流石に学園も生徒会長の両親も戦争(内乱)回避に動く可能性が高い上に引き渡して処分されるだろうから生存するのは不可能だと思われますね。 続きが気になります。
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