第92話:彼女の家は
机に両手をつき、ヴィクトールがゆっくりと身を起こす。その動作一つで、法廷の空気が張り詰めた糸のように引き絞られる。傍聴席から漏れ聞こえていた微かな衣擦れの音すら完全に消失し、被告席に座るブリッタの肩が小刻みに震え始める。
これまで淡々と事実を積み上げていた男の空気が、ここに来て明確に変質した。
「整理しましょう。容疑は3つ」
ヴィクトールの声が、一段階上の音量で空間に響き渡る。決して怒鳴っているわけではない。舞台上の役者が観客の鼓膜へ正確に台詞を届けるような、圧倒的な共鳴と質量を伴った声である。
「いじめはアリバイで崩れた」
「色恋沙汰は被害者が存在しない」
「成績の不正は生徒会の越権」
「証拠は筆跡が一致せず、日付が矛盾している」
短い事実の羅列が、重々しい杭となって法廷に打ち込まれていく。ヴィクトールは被告席の正面へと歩み寄り、真っ直ぐに彼らを見据えた。
「——3つとも嘘です」
「では、なぜ嘘を3つも並べたのですか」
間髪を入れない問いかけが、逃げ場のない刃となってアルベルトの喉元へ突きつけられる。これまで平静を装っていた彼の表情が、隠しきれない動揺で硬く強張っている。
「1つで足りなかったからです。嘘は数で補う。被告はそれを知っていた」
ヴィクトールの鋭い視線が、主犯である生徒会長を正確に射抜く。あの大講堂で浴びせられた矢継ぎ早の弾劾は、正義の執行などではない。脆弱な嘘を束ねて暴力に変えようとした、悪意ある計画性に他ならなかった。
クラウスがたまらず立ち上がる。学者としての矜持が、彼に最後の防衛線を張らせていた。
「生徒会は苦情を受けて調査し、報告会を開いた。手続きに多少の不備はあったとしても、目的は学内秩序の維持です。目的は正当です」
「正当な目的のために、味方を入場拒否し、証拠を捏造し、被害者を用意した。——目的が正当なら手段は問わないのですか。それは法治ではありません」
ヴィクトールの声が法廷の空気を両断した。
クラウスは微かに唇を震わせ、それ以上の言葉を紡ぐことなくゆっくりと席へ沈み込む。完璧な論理の断絶。学園の自治という名の正義は、法の前に崩れ去った。
法廷は再び、水を打ったような深い沈黙に包まれる。
一拍の空白。ヴィクトールがふっと短く息を吐き、まとっていた熱をすっと引かせていく。極限まで高められた緊張感の中、次なる一撃へ向けて決定的に声のトーンを落とす予兆だった。
◇◇◇
ヴィクトールが小さく息を吐き出す。
先ほどまで空間を支配していた劇場的な熱が、急速に引いていく。法廷を包み込んでいた圧倒的な圧力が嘘のように霧散し、代わりに静謐な冷気が足元から這い上がってくる。
ヴィクトールは極限まで声のトーンを落とし、静寂に溶け込むような穏やかさで口を開いた。
「念のため申し上げます」
ヴィクトールが視線を落とし、書類に触れていた指先をそっと離す。呼吸の音さえ消え去った空間で、誰もが次の言葉を待っている。
「原告アネッテ・フォン・リンデン。"リンデン"は母方の家名です。——父は、王国軍務卿アーロン・フォン・ガイエル公爵です」
法廷の空気が完全に凍結する。
アルベルトの顔からさっと血の気が引き、土気色に染まる。隣に座るブリッタの肩がガタガタと震え出し、両手で口を覆う。防衛線を完全に突破されたクラウスでさえ、目を細めて息を呑むのが見えた。
アネッテは地方小貴族の娘などではなかった。
傍聴席の最後列に鎮座していた異質な集団の正体を、ようやく全員が理解する。開廷の時から微動だにせず座り続けていた甲冑の男たちは、ガイエル公爵家の護衛兵だった。
「もし本件が法廷ではなく軍務卿の権限で処理されていたなら、この学園はどうなっていたでしょうね」
ヴィクトールが、仮定の形をとって淡々と言葉を置く。
重い木製の椅子が鳴る。
最後列の甲冑の男たちが、一斉に腰を浮かせかけた。六人分の分厚い鎧が擦れ合う金属音が、高い天井に冷たく反響する。暴力の気配が、一瞬だけ法廷に立ち昇った。
ヴィクトールがゆっくりと振り返る。そして、極めて穏やかな動作で手のひらを軽く広げた。
「ご静粛に願います。——裁判長閣下は学園側のお方だとしても、一度判事の席にお付きであれば公正な判断をお下しになります」
男たちは動きを止め、ゆっくりと椅子に座り直す。だが、その兜の奥から放たれる視線は、もはや単なる傍聴者のそれではない。明確な監視の目となって、法壇の上の合議体を射抜いている。法廷の空気は不可逆的に変質していた。
主席判事のテオドールは、その表情を一瞬だけ固まらせる。三十年の長きにわたり学園の法務を担ってきた彼をして、想定を遥かに超える事態だった。
「……本件は学内紛争の域を超えている」
低く漏らした声に、陪席のリディアが無言で腕を組み直す。ルイーゼは手元の書類から顔を上げ、じっと原告席を見つめている。
テオドールが視線を向けた。
「原告。なぜ法廷を選んだのですか」
開廷から今まで、抜け落ちた表情のまま座り続けていたアネッテが、ゆっくりと動く。
二ヶ月前、狂騒の大講堂で立ち上がることができなかった少女が、今、静かに立ち上がっている。
背筋を伸ばし、法壇を真っ直ぐに見据えて、彼女の口が開く。
「父は怒っていました。婚約者も怒っています。ですが私は軍を動かして復讐したくありません。——だから法廷に来ました」
声は小さい。
だが、静まり返った法廷の隅々にまで、はっきりと通る。狂騒的な拍手や無責任な嘲笑の中でかき消されることのない、確かな声だった。
誰も口を開かない。法廷の全員が、その小さな声の余韻を聞いている。
ルイーゼが小さく瞬きをする。新しい段階へ踏み出した法廷は、決定的な静寂に包まれていた。




