第91話:物理的に不可能
ヴィクトールが机上の分厚い書類の束から、一枚の紙を引き抜く。
「最初に、風紀総会の公正性を確認します。——証人を呼びます」
抑制された、だが法廷の隅々にまで通る声が響いた。
指定された証人席へ、一人の女生徒が進み出る。ヘンリエッタ。二ヶ月前、大講堂の重い扉の前で立ち尽くしていた彼女は、今は背筋を伸ばし、法壇を真っ直ぐに見据えて立っている。
アネッテは、ただ静かに座り続けている。その横顔から表情はすっぽりと抜け落ちたままだ。原告席の端に座る老弁護士ベルンハルトの表情も、微塵も動かない。硬く前を見据えるその顔に、私情は一切浮かんでいない。だが、膝の上で固く組まれた両手は、血の気を失ってわずかに白くなっている。
ヘンリエッタは、原告席へは一度も視線を向けない。証言台に立つ者としての、冷徹なまでの配慮だった。
「あなたは風紀総会に出席しましたか」
ヴィクトールの声には感情が乗っていない。事実を置くだけの響きだ。
「していません。大講堂の前で入場を拒否されました。『関係者以外は入れません』と」
ヘンリエッタの証言が、法廷の空気を揺らす。あの狂騒の裏で何が行われていたのか、その一端が初めて公の場に引きずり出される。
「あなたはアネッテの友人ですね」
「はい」
迷いのない声が、簡潔に肯定した。
ヴィクトールは手元の紙を法壇の合議体へ向ける。
「風紀総会に出席できなかった生徒のリストと、原告の友人のリストを突き合わせました。一致率は92%です」
陪席のリディアが、手元の分厚い資料を無言でめくり、該当のページに視線を落とす。数字が、法廷に重い沈黙を強いた。
クラウスが素早く立ち上がる。
「参加者選定は生徒会の裁量です。全生徒を呼ぶ義務はありません。呼ばなかったことと排除は同義ではない」
学者のように理路整然とした反論。生徒会の自治権を盾にした反論である。
「92%が偶然ですか」
ヴィクトールは即座に切り返した。熱はない。ただ鋭利な刃物のような冷たさがある。
クラウスは顔色一つ変えずに言葉を継ぐ。
「一致率92%は興味深い数字です。ですが友人関係の定義は誰が決めましたか」
客観性を欠く恣意的なリストではないかという、的確な指摘だった。弁護士として、彼は容易には崩れない。
ヴィクトールは、傍聴席の一角へ視線を移した。
「本人です。証言で。——今この法廷に、アネッテの友人が5名来ています。全員が入場を拒否されています。偶然が5回続きますか」
重い響きを持って打ち下ろされた言葉。
傍聴席に座る五人の生徒たちが、無言のままその存在を法廷に示している。紙の上の数字ではなく、生身の人間としてそこにある「排除された事実」がクラウスの論理を圧迫する。
テオドールが、静かに被告席へ視線を向ける。
「……被告側。反論はありますか」
クラウスは沈黙し、一瞬だけ目を伏せた。
「……裁量の範囲内であるという主張は維持します」
着席する彼の態度は崩れていない。だが、理路整然とした自治の盾には、隠しようのない亀裂が走っていた。「裁量」という言葉が、数字と証言の前に説得力を失い始めている。
ヴィクトールは表情を変えることなく、次の書類へと手を伸ばす。味方の排除という外堀を埋め終え、法廷の空気がさらに引き締まった。
◇◇◇
ヴィクトールが机上の書類の束から、新たな一枚をゆっくりと引き抜く。
「次に容疑を1つずつ確認します」
その声は静かだが、法廷の冷たい空気を震わせるだけの確かな重みを持っている。二ヶ月前の風紀総会の壇上で浴びせられた弾劾とは対極の質感だ。
ヴィクトールは視線を真っ直ぐに被告席へ向ける。
「ブリッタさん。あなたがいじめを受けたと証言した日時を教えてください」
不意に名指しされたブリッタの肩が、びくりと大きく跳ねる。彼女は縋るように隣のアルベルトを見るが、彼は前を向いたまま一切の反応を示さない。主席判事のテオドールをはじめ、法廷中の視線が突き刺さる中、ブリッタは引きつった唇を微かに開く。
「……十月十五日です」
か細い、消え入るような声が石造りの法廷に落ちる。
「その日、アネッテはアカデミアにいましたか。——いませんでした。実家に一時帰省しています。学園の出入記録です」
ヴィクトールが提示した一枚の書面に、法廷の空気が粟立つ。確たる物的証拠の提示。傍聴席の生徒たちが一斉に息を呑み、合議体のルイーゼとリディアが手元の資料へ無言で目を落とす。
だが、クラウスは即座に立ち上がった。
「学園の出入記録でアリバイが成立するのは1件です。残り2件はアリバイではなく状況証拠で争っています。状況証拠は解釈の問題です」
弁護士としての防衛線。客観的証拠で完全に崩された部分を素早く切り捨て、残る曖昧な領域へとしがみつく。学者型の彼らしい、理路整然とした撤退戦である。
ヴィクトールは追及の歩みを止めない。
「次に色恋沙汰。アネッテが男子生徒をたぶらかしたと。——被害者がいるなら、被害届が出ているはずです。出ていますか」
一切の熱を排した問いが、主犯であるアルベルトを射抜く。生徒会長である彼は唇を固く結び、一言も発しない。かつて大講堂で正義を騙った彼の口から、今は弁明すら出てこない。沈黙だけが、被告席に重く淀む。
「出ていません。そのレベルの被害を受けた人間がいるなら、自ら名乗り出て、この法廷で証言するはずです。被害届もない。証言もない。——被害者? そんなものが本当に存在するのですか」
冷徹な言葉が、法廷の隅々にまで響き渡る。アルベルトの膝の上で組まれた手に、じわりと力がこもるのが見えた。アネッテは、依然として表情を消したまま、その攻防をただ静かに見つめ続けている。
「学術法第14条。成績評価は教授会の専権事項です。生徒会に成績を審査する権限はありません。この容疑を掲げること自体が越権です」
重厚な、岩を擦り合わせるような低い声が空気を震わせる。原告席の端で沈黙を守っていた老弁護士、ベルンハルトが声を発していた。七十代に達するアカデミア法の生き字引。彼が口にした条文の響きには、それだけで圧倒的な質量の説得力が放たれている。
クラウスが素早く反応し、言葉を返す。
「生徒会は不正の疑いを報告する義務があります。審査権がなくても報告権はある」
「報告先は教授会です。大講堂で全生徒に公表することは報告ではありません。私刑です」
老弁護士の容赦のない一撃が、クラウスの論理を真っ向から両断する。「私刑」という重苦しい単語が、法廷の空気をさらに一段階冷え込ませる。クラウスは微かに眉をひそめ、それ以上の反論を呑み込んだ。彼が掲げていた自治という盾の亀裂は、もはや隠しようのないほどに広がっている。
「最後に。風紀総会で提示された『証拠』を確認します。——ブリッタさんが提出した手紙。アネッテが書いたとされています」
ヴィクトールの声が、ここに来て微かに温度を上げる。
「筆跡鑑定の結果です。アネッテの筆跡と一致しません」
ブリッタの顔から、さっと血の気が引く。震える両手で自身の膝を握りしめ、視線を激しく泳がせた。
「次に、ブリッタさんの日記。いじめを受けた日付が記されています。——しかしこの日付は、アネッテが実家に帰省していた期間と重なっています。アカデミアにいない人間からいじめを受けることは物理的に不可能です」
法廷が、完全な静寂に落ちる。
積み上げられた客観的な事実が、生徒会の主張という砂上の楼閣を根底から打ち崩した瞬間だった。誰もが息を潜め、捏造された証拠が崩れ去る様を目の当たりにしている。
呼吸の音すら消え失せたような重い沈黙の中で、ヴィクトールは手にした書類を机へことりと置く。
静寂を切り裂くように、彼の口角が僅かに吊り上がる。冷徹な事実の積み上げを終えた男の纏う空気が、静かに、だが決定的に変質し始めていた。




