第90話:三千五百万
分厚い樫の扉が重々しい音を立てて閉ざされ、石造りの廊下から響いていた学園の喧噪が完全に遮断される。
あの大講堂での風紀総会から、二ヶ月が経過していた。
高い天井と、年輪を重ねた黒木で設えられた壁面。アカデミア・マギストラの法廷は、大講堂とは違う冷厳な格式を保っている。空気を吸い込むことすら躊躇われるような、重厚な空間がそこに広がっている。
正面の高い壇上へ、三人の合議体が静かな足取りで姿を現す。
学園の法務を三十年にわたり担い続け、公正と権威を体現する主席判事テオドールを先頭に、王都中央裁判所の陪席ルイーゼ、そしてリディアが続く。
それぞれの席に着き、ルイーゼは手元の書面に視線を落とす。原告側代理人の欄に記された黒々としたインクの文字、『ヴィクトール・レンツ』。
彼女は静かに目を閉じる。
リディアは、ゆっくりと法廷内を見渡す。
自身の母校。かつて彼女自身がいじめという名の暴力に晒され、圧倒的な孤立を強いられた場所で、今日は黒い法服を纏い、裁く側の席に座っている。
壇上から見下ろす原告席には、三人の姿がある。
アネッテ・フォン・リンデン。そして主任弁護人のヴィクトールと、共同代理人である老弁護士ベルンハルト。
アネッテは背筋を真っ直ぐに伸ばし、微動だにせず座っている。二ヶ月前の図書室で抜け落ちた表情は、今も戻っていない。困惑も、怒りも、悲しみもない。彼女の目はただ真っ直ぐに、対面に座るアルベルトを見据えている。
向かい合う被告席。
主犯であるアルベルトは表面上は冷静を装い、前を見据える。その隣には緊張で僅かに肩を強張らせたブリッタ、そして生徒会役員たちが並ぶ。彼らの傍らには、被告側代理人を務めるクラウスが、分厚い規約集を前に静かに座っている。アルベルトにとって、アネッテは変わらず、数多くいる地方小貴族の娘の一人に過ぎない。
傍聴席には、アカデミアの生徒と教師たちが着席している。誰もが息を潜め、あの風紀総会の時のような容赦のない私語や嘲笑はない。ここは純然たる法廷である。
だが、その最後列に、異質な集団が陣取っていた。
開廷の前から既にそこに着席している、甲冑を着込んだ男たちが六人。
学園都市の自治法廷においては、王国の特権階級に連なる者が傍聴する際、武装した護衛兵の同伴が認められている前例がある。公爵家や伯爵家が絡む事案であれば、決して珍しい光景ではない。
しかし、本件の被告席に座る生徒たちにとって、それは初めて目にする威圧だった。原告を小貴族だと信じて疑わない彼らは、それが誰の護衛兵としてそこにいるのか、想像すら及んでいない。
クラウスの目が、一瞬だけ細くなる。
弁護士である彼は、特権階級の護衛兵がこの場に控えていることの法的な意味を正確に察知している。だが、彼は視線を前に戻し、横に座る依頼人のアルベルトには一切それを伝えない。
原告席で、ヴィクトールが静かに立ち上がる。
大仰な身振りはない。極めて抑制された、滑らかな動作。
法壇を見上げたヴィクトールと、ルイーゼの視線が交差する。ヴィクトールの口角が上がり、一瞬だけ笑う。ルイーゼの表情は氷のように冷たいままだ。
「原告アネッテ・フォン・リンデン。代理人ヴィクトール・レンツ。共同代理人ベルンハルト。——陪席のお二人とはご縁がありますね。審理に支障がないことを信じています」
平坦に響いた挨拶に対し、ルイーゼは即座に返す。
「審理に関係ある話をしてください」
「お久しぶりです。——では請求内容を読み上げます」
ヴィクトールは手元の書面に視線を落とす。声に一切の熱を帯びさせず、淡々と事実だけを空間に置く。
「慰謝料、名誉回復措置、学園運営の管理責任に基づく賠償、刑事告発を含む8項目」
そこで一度言葉を切り、法廷の空気を凪のまま留める。
「——請求総額3,500万クローネ。うち250万クローネは弁護士費用の被告負担分」
沈黙が落ちる。
直後、傍聴席から抑えきれないざわめきが波のように広がった。学生が一生を費やしても支払えない数字。被告席の生徒会役員たちが一斉に顔を強張らせ、ブリッタが息を呑む音が響く。
クラウスがすかさず立ち上がる。
「請求が過大です。生徒会の自治権の範囲内の行為に対して、このような苛烈な請求は不当です。——生徒会には学内秩序の維持を目的とした自治権があり、風紀総会はその行使にあたります」
学者然とした声が、法廷に広がりかけた動揺を縛り付ける。
主席判事のテオドールが、落ち着いた声で場を制する。
「では審理に入ります」
ヴィクトールが、机に積まれた分厚い書類の束へゆっくりと手を伸ばす。法廷の空気が、さらにもう一段階、静かに冷え込んだ。




