第89話:包容力では
アルベルトが頭上へ掲げた右手が、熱狂の頂点にあった大講堂の空気を一瞬にして縛り上げる。完全に制圧された静寂の中、彼はゆっくりと腕を下ろし、マイクへ向かって口を開いた。
「以上の事実に基づき、生徒会はアネッテ・フォン・リンデンに退学を勧告します。これは学園の秩序を守るための措置です」
冷え切った宣告が講堂の隅々にまで届き、重い沈黙が一拍だけ降り立つ。
最初の拍手は、最前列に陣取る生徒会役員たちから起きた。感情の乗っていない、乾いた硬い音。二つ目、三つ目と続く。壇上の隣に座るブリッタも、顔を上げて手を叩き始める。彼女の頬にはとめどなく涙が流れているが、両手を打ち合わせるその動きには一片の迷いもない。与えられた役割を全うするように、確信に満ちたリズムを刻んでいる。
四つ目の拍手が、傍聴席の前列から響く。アネッテに成績で抜かれた同級生の女生徒だ。拍手の手つきは確かに早く、彼女の目には悲痛な涙などなく、むしろ重荷が下りたような安堵に近い光が宿る。
五つ目、六つ目。婚約相手の話で何度かアネッテに笑われたと固く信じ込んでいる女生徒が、自らの誤解を正当化するように唇を引き結びながら手を打つ。
その斜め後ろでは、外部入寮枠の選考で自分が落ちたと逆恨みしている生徒が、腹いせのように強めの拍手を加えている。
さらに、アルベルトの権力にすり寄りたい取り巻きの生徒たちが、忠誠を示すように素早くその波に合流する。
数秒の遅れを置いて、一般生徒の中の誰かが恐る恐る手を合わせた。それが、巨大な堰を切る音となる。
拍手が広がる。同調圧力の波が、隣へ、そのまた隣へと座席を飲み込んでいく。迷いながらも遅れて手を動かす者。周囲を確認してから慌てて合わせる者。そして、何も考えずに音に乗る大多数。
壁際で腕を組んでいた教師がゆっくりと手を解き、形式的な拍手に加わる。窓の外を眺めていた教師も、集会の終了を悟ったように、何一つ把握せぬまま緩やかに手を打ち始めた。
数多の音が重なり合い、やがて大講堂全体が暴力的なまでの拍手で満ちる。
——拍手しない者がいた。
最後列の座席で、生徒Aは自らの両手を膝の上で白くなるほど握りしめている。その隣に座る生徒Bは、現実から逃避するように視線を床の木目に落としたままだ。
会場の端では、顔を伏せた教師がじっと立ち尽くし、決して手を動かそうとしない。
だが、彼らの沈黙は、空間を支配する轟音の前では何の力も意味も持たない。
壇上には、アネッテが一人で立っている。
何百という人間の手が作り出す拍手の渦の中で、彼女の瞬きとともに、ひとしずくの涙が頬を伝い落ちた。
誰もそれに気づく者はいない。鼓膜を震わせる拍手の音が、床にぶつかる小さな水音を完全に掻き消してしまっていたからだ。アネッテは声を出さず、ただ身をすくませている。
拍手が大講堂の頂点に達し、熱に浮かされたような空気がいつまでも鳴り響き続けている。
◇◇◇
重厚な樫の扉が背後で音を立てて閉ざされる。分厚い木板が、大講堂を満たしていた狂騒と拍手の響きを遠い対岸の出来事のように遮断した。
アネッテは静まり返った廊下をゆっくりと歩き出す。石造りの床を打つ彼女の足音だけが、ひんやりとした空間に妙に大きく響き渡っている。
前方から歩いてくる生徒の姿があった。昨日まで、廊下ですれ違えば気さくに会釈を交わしていた顔見知りの上級生だ。アネッテが立ち止まりかけるより早く、その上級生は彼女の姿を視界の端に捉えた瞬間にスッと視線をそらす。すれ違う際、硬い靴音が明らかに速度を増して廊下の奥へと消えていった。
アネッテは何も言わない。ただ、再び歩き出した自分の足音だけが、廊下に妙に大きく響いて聞こえる。
翌日。教室。
アネッテの隣の席には、誰も座っていない。昨日まで、そこにはいつも他愛のない会話を交わしていた友人の姿があった。
静かな教室を見渡すと、その友人は斜め反対側の窓際の席に座っている。別の生徒の隣で、ノートを広げている。ふと、顔を上げた友人と視線が交差する。友人は一瞬だけ肩を強張らせ、すぐに逃げるように目をそらした。
その隣の生徒も、後ろの生徒も、誰一人としてアネッテの存在する空間を見ようとはしない。
開始の鐘が鳴り、教師がいつも通りに教室へ入ってくる。黒板に日付を書き込み、いつも通りに教科書のページを開くよう指示を出し、授業を始めた。この空間では、まるで何も起きていないかのように時間が前へと進んでいく。
翌週。図書館。
窓際の四人掛けのテーブルに、アネッテは一人きりで座っている。机の上に開かれたままの教科書は、席に着いた最初から全くページが動いていない。
広大なフロアを見渡せば、周囲のテーブルには勉強に励む生徒たちの姿がある。だが、アネッテが使うテーブルの残りの三席には、いつまで経っても誰も座ろうとしない。
本を抱えた生徒が一人、空席を探して歩いてくる。アネッテのテーブルに近づきかけたその生徒は、顔を見た瞬間にわずかに足を止め、すぐに無言で踵を返して別のテーブルへと歩き去った。
カウンターの奥から、司書が遠巻きにこちらを見つめている。その眼差しには、明らかな同情と気の毒そうな色が混じっている。だが、司書はただ見つめるだけで、決してこちらへ歩み寄って声をかけてはこない。同情はあっても、この学園の空気の中でそれ以上の行動が起きることはない。
包容力で集まっていた人間が、包容力では守れなかった。




