第88話:拍手の壁
アルベルトの手が、マイクの支柱を微かに緩めて角度を直す。彼はアネッテを冷徹に見据え、形式的な手続きをこなすように口を開いた。
「弁明があればどうぞ」
アネッテは壇上で立ち尽くしている。彼女の頭の中では、今まさに突きつけられた事象が全く処理しきれていない。視界の端でブリッタが肩を震わせて泣き続けている。なぜ彼女が泣いているのか、その理由が理解できない。自分が書いたとされる手紙の文面が耳の奥で反響している。決して書いていないはずの言葉。それに加えて、男子生徒への接触、成績の不正。三つの全く身に覚えのない容疑が同時に並べ立てられ、どれから解きほぐせばいいのか分からない。
「……それは違います。私はブリッタさんに嫌がらせをしたことは——」
どうにか第一の容疑だけでも否定しようと、震える声で言葉を紡ぎ出す。
「言い訳は見苦しい。証拠は提示しました」
弁明の後半は、アルベルトの冷え切った宣告によって無残に断ち切られる。最初から聞く耳など持っていない、完璧に用意された切り捨て。
「そうだ!」
前列に座る生徒会役員たちの声に誘発されるように、背後の一般生徒たちの声が重なる。群衆の同調が、アネッテの細い声を物理的に押し潰す。
「でも、その手紙は——」
もう一度だけ、アネッテは必死に口を開く。だが、その声はマイクを通さずに発せられたため、次々と湧き上がる講堂のざわめきと非難の波に完全に飲み込まれてしまう。何百という人間の放つ圧力に押し潰され、彼女の反論は誰の耳にも届かない。
アネッテはゆっくりと口を閉じる。喉の奥が引きつるように上下するが、もう音は出てこない。視線が足元の床へと落ち、両手はスカートの布地を力なく握りしめている。
周囲の音が、水底にいるかのように遠くくぐもって聞こえ始めた。頭の中が白く染まっていく。大講堂を満たす無数の声と熱気の中で、ただ一つ確かなのは、ここは対話をするための場所ではないというひんやりとした感覚だけだ。彼女の顔には、恐怖よりも深い困惑が張り付いている。どうしてこんなことになっているのか、全くわからない。
会場の壁際で、手元の書類から顔を上げていた教師が、張り詰めた空気を裂くように一歩だけ前へ踏み出す。だが、講堂全体を支配し始めた群衆の圧倒的な熱量に気圧されたように、上げた足は躊躇いがちに床へ戻される。
少し離れた壁際に立つ教師は、腕を深く組んだまま微動だにしない。さらに後方の窓際にいる教師に至っては、外の景色をぼんやりと眺めたままで、壇上の異常な光景に関心を払う様子すらない。
アネッテが完全に沈黙したことで、大講堂の空気は不可逆の段階へと足を踏み入れる。反論を物理的に封じられた少女を前にして、名を持たない群衆の非難が、次の形を求めてうごめき始めていた。
◇◇◇
「……あの手紙、本物なのか?」
後方の座席で、生徒の一人が隣の友人へ向けてそっと囁く。大講堂を包む熱狂に反発するような、かすかな疑問の声。
「わからない。でもみんな怒ってるし……」
隣の生徒も周囲の様子を窺いながら、口元を手で覆って短く返す。提示された証拠の真偽など、この席からでは確かめようがない。
「……」
問いかけた生徒は押し黙り、膝の上で拳を握る。ここで異を唱えれば、今度は自分がこの同調圧力の矛先に向かわれる。その恐怖が、わずかな理性の声を重い沈黙へと沈めていく。
「よそ者のくせに! 出ていけ!」
中列の席で生徒が一人、勢いよく立ち上がり、壇上のアネッテへ向けて鋭い声を叩きつける。
それは、限界まで膨れ上がっていた空気を破る針となる。堰を切ったように、あちこちの座席から呼応する声が次々と立ち上がり始める。
「退学だ!」
「この学園にいる資格がない!」
最初は個人の怒りだったものが、群衆の声へと変わっていく。誰も確信していない。だが群衆心理が「有罪」を作る。提示された事実の裏付けなどとうに忘れ去られ、ただ共通の敵を排除するという熱狂だけが伝染病のように講堂中を飲み込んでいく。
アネッテは深くうつむいたまま、小刻みに震える両肩を抱くようにして立ち尽くしている。容赦なく叩きつけられる無数の敵意の礫が、彼女の視線をさらに暗い足元へと落とさせる。
壁際に立つ教師の顔が、ゆっくりと伏せられる。一歩踏み出しかけていた足は完全に床へと戻り、これ以上壇上の光景を見まいとするかのように、その視線は靴の先端に固定された。大人が介入するべき最後の瞬間は、無慈悲な罵声の波に飲まれて完全に失われている。
少し離れた位置に立つ教師は腕を組んだまま微動だにせず、窓際にいるもう一人の教師は、ついに一度も講堂内へ関心を向けることはない。
怒号と非難が飽和点に達し、大講堂の空気が震えるほどの熱狂を生み出したその時。
アルベルトが表情をわずかに引き締め、ゆっくりと右手を頭上へと掲げた。




