第84話:死体が、こちらを見ていますが
分厚い書類の束が、検察官の卓に無造作に叩きつけられた。
王都の法廷は、奇妙なざわめきと沈黙が入り交じっている。傍聴席を埋め尽くす人々の視線は、ただ一点に釘付けになっていた。
視線の先には、ぽつんと立つ一人の男。
王国裁判官ヴェルナー・クラフトは、静かにこめかみを揉みほぐす。
久しぶりの刑事法廷だった。ここしばらく平穏な書面審査や軽微な民事トラブルばかりで、彼の胃袋もようやく安息の時を迎えていたというのに。
どうやら、休息期間はあっけなく終わりを告げたらしい。
検察官は手元の紙片から一切目を上げず、事務的な声で読み上げる。
「被疑者ゲオルクは、逃走中に四頭立ての荷馬車と衝突。直ちに王国指定医師の診察を受け、心肺停止および脳機能の完全な停止が確認されました」
淡々と事実を連ねる声が、高い天井に虚しく響く。
「死亡届はすでに役所にて受理されており、医学的にも戸籍上にも、彼の死は確定しています。法的にこの存在は死者です」
そこで言葉を切り、検察官は初めて顔を上げた。
彼の目は被告人席に立つ男を完全に素通りし、裁判官席のヴェルナーだけを真っ直ぐに捉える。
「死者を被告にする前例はありません。被疑者死亡により不起訴を求めます」
淀みない要求。条文主義に基づく、非の打ち所がない論理展開だ。
ただ一つ、致命的な問題を抱えていることを除けば。
ヴェルナーは手元の羽根ペンをインク壺に戻し、ゆっくりと口を開く。
「……前例がないことと、不可能であることは違います。——死体が、こちらを見ていますが」
ヴェルナーの指摘通り、被告人席の『死体』は確かに彼を見つめ返していた。
青白い肌に、生気のない瞳。呼吸によって胸が上下する気配すらない。だが、首を傾げ、目を瞬き、明らかに周囲の様子を窺っている。
間違いなく、意思を持って動いている。
その瞬間、傍聴席の最前列から怒号が飛んだ。
「死亡してません! あそこに立ってるじゃないですか!」
手すりを力強くバンバンと叩き、身を乗り出したのは被害者である商人のハンスだ。
「4万5千クローネ盗まれたんです! 生きてるなら返せ!」
声を荒げるのも無理はない。四万五千クローネは小規模な商店の数ヶ月分の利益に相当する大金だ。犯人が馬車に轢かれたと報告を受けた直後、当の犯人が法廷内のこのこと歩き回っているのを見せつけられたのだ。
しかし、検察官は眉をひそめ、ハンスを冷ややかに見下ろした。
「静粛に。あれは死体です。死体に刑事責任は——」
「死体が俺の店の金庫を開けて、金貨の袋を持って走ったってのか! ふざけるな!」
「事件当時は生存していました。しかし、今は違う。法が裁くべき対象は、この世にもう存在しないのです。あれは単なる物、あるいは魔法による残骸に過ぎない」
「そこにいるだろうが! さっきから俺と目が合うと、視線を逸らしてるじゃねえか!」
ハンスが指差す先で、ゲオルクは小さく首をすくめた。
どう見ても周囲の状況を把握している存在だ。だが、検察官は頑として現実を認めようとしない。彼にとって重要なのは、目の前の動く死体ではなく、手元の『死亡届』という書類の束だけだ。
堂々巡りの口論に、ヴェルナーは短く息を吐く。
法廷の秩序が崩れかけていた。
ヴェルナーは手元の木槌を握り、硬い音を一度だけ打ち鳴らす。
「検察。目の前で喋っている死体の処理を、この法廷は放棄しません。審理を続けます」
「しかし、裁判官殿!」
検察官が顔をしかめ、抗議の声を上げる。
「条文に死者を裁く規定など存在しません。手続法にも、刑法にもです。法の枠外にある事象を無理やり当てはめれば、司法の根幹が揺らぎます」
「だからこそ、ここで確定させる必要があるのです」
ヴェルナーは冷徹な視線を検察官に向ける。
法の欠陥を見ないふりをして、書類の束に蓋をするのは容易い。だが、それでは被害者の訴えも、被告の存在も宙に浮いたままになる。司法とは、現実の歪みを放置するためのものではない。
法廷に重苦しい沈黙が降りた。
その時、おずおずとした声が静寂を破る。
「すみません。私はここにいていいんでしょうか」
声の主はゲオルクだった。
血の気のない唇が動き、確かに言葉を紡ぎ出している。脈も体温もない男からの、ひどく遠慮がちな問いかけ。
ヴェルナーは胃薬の小瓶へ伸びそうになる手を制し、まっすぐに彼を見据える。
「……それを今から決めます」
彼の低い声が、静まり返った法廷に響き渡った。
◇◇◇
ヴェルナーは手元の名簿と、被告人席に立つ『それ』を交互に見やる。
書類上、ゲオルクという名の男は先日死亡が確認され、戸籍も抹消されている。目の前にいるのは、法的には「存在しないもの」だ。
ヴェルナーは言葉を選び、慎重に問いを投げかける。
「被告——いえ、被疑者——いえ……何とお呼びすればいいのですか」
問いかけに、男は肩をすくめてみせた。その動作には、かつて小悪党として街を歩き回っていた頃の軽薄な名残がある。
「ゲオルクで結構です。生前もそう呼ばれていました」
男の声に、傍聴席が小さく波打つ。
幽霊のような掠れ声ではない。どこか空ろではあるが、はっきりとした理知を感じさせる響きだ。
ヴェルナーはペン先を書類に落とす。
「……ゲオルク氏。あなたは自分が死んだことを認識していますか」
「ええ。馬車に轢かれました。痛かったですよ」
さらりと、彼は答える。だが、その言葉の内容には、一人の人間が生命を終えた瞬間の重みが刻まれている。
ヴェルナーは男の瞳を見据える。そこには生者のような光はないが、確かな認識の火が灯っている。
「現在の身体状況は」
「冷たいです。脈はありません。食事は不要です。ただし意識はあります。記憶もあります。ハンスさんから金を盗んだことも覚えています」
ゲオルクは傍聴席のハンスに視線を送り、困ったように眉を下げた。
呼吸をしていない。喋るたびに胸が動くはずだが、その胸板は硬い板のように静止したままだ。ただ口唇と、視線だけが生きている。
ハンスが「盗んだ自覚はあるんだな!」と立ち上がりかけるが、検察官の冷淡な視線に射抜かれ、大人しく腰を下ろす。
「……記憶があるのですか」
ヴェルナーの問いに、ゲオルクは深く頷く。
「全部。生前の記憶がそのまま。私は私です。身体が死んでいるだけで」
その宣言は、静かな波紋となって法廷内に広がっていく。
自分が何者であるか。それを証明するのは心臓の鼓動か、あるいは脳裏に刻まれた記憶の集積か。
ゲオルクの言葉に、反論を試みようとした検察官も口を閉ざす。
ヴェルナーは静かに息を整える。
彼が直面しているのは、法律が想定していなかった巨大な空白だ。
だが、その空白を埋めるのが裁判官の職務である。
ヴェルナーは白紙の頁を捲り、論点を整理するための準備に入る。
◇◇◇
ヴェルナーは手元の六法全書を、あらかじめ付箋を貼っておいた頁で開く。
紙が擦れる乾いた音だけが、高い天井へと吸い込まれていく。
傍聴席の喧騒は引き、代わりに重苦しい思考の霧が法廷を満たしている。検察官は腕を組み、険しい表情で被告人席の『物体』を注視する。ハンスは苛立ちを隠そうともせず、貧乏ゆすりを繰り返す。
ヴェルナーは眼鏡のブリッジを押し上げ、全員を見渡した。
「整理します。論点は1つ。アンデッドは法的に何か」
その一言で、法廷の焦点が定まる。
ヴェルナーは淡々と言葉を継ぐ。
「なお。王国訴訟法第42条は、法的主体を持たない者を訴訟の当事者とした場合、訴訟手続き中は法的主体性を追認すると定めています。先日の王都中央裁判所における、魔獣の法的主体性を認めた件でも、この条項が適用されました。意思疎通が可能な存在に対し、この条項は射程範囲内です。よって、この審理を継続することに手続上の瑕疵はありません」
検察官が何かを言いかけるが、ヴェルナーの理路整然とした説明に口を噤む。
「この法廷において、検討すべき説は三つあります」
ヴェルナーは指を一本立てる。
「第一に『死体説』。医学的な死と行政上の死亡届を絶対視する立場です。これによれば、ゲオルク氏は法的には単なる動く物体であり、権利も義務も持ちません。当然、刑事責任も発生しない」
次に、二本目の指を立てる。
「第二に『人格説』。先ほど彼が述べた通り、生前の記憶と意思の連続性を重視する立場です。身体の状態に関わらず、精神が同一であるならば、彼は法的主体として扱われるべきである、という考え方です」
最後に、三本目の指。
「第三に『新主体説』。人でも死体でもない、全く新しい法的カテゴリーとして定義する立場です。既存の法律では処理できないため、特別法による対応を前提とします」
ヴェルナーは一度言葉を切り、被告人席に視線を落とす。ゲオルクは自分の「定義」が俎上に載せられている状況を、どこか他人事のように眺めていた。
「仮に第一の説——法的主体でないとするならば、何が起きるか。刑事責任はなく、財産権も認められません。契約能力も失われます。つまりゲオルク氏は宿にも泊まれず、買い物もできず、社会生活が不可能になります」
ヴェルナーの声が、一層硬質さを増す。
「そして、所有者のない『死体』として処分される可能性があります」
「……処分」
ゲオルクが呟く。
その声は小さかったが、法廷の隅々にまで波紋のように広がった。ゲオルクの肩が、微かに震える。
「逆に、第二の説に従って法的主体であると認めるならば。ゲオルク氏には刑事責任が生じます。窃盗罪で裁かれ、ハンス氏に盗んだ金を返す義務を負う。理屈としては極めて明快です」
ヴェルナーはそこで、わずかに眉間に皺を寄せた。
「ただし——死体に懲役を課す意味があるのか、という問題が残ります」
法廷に、これまでにない質の沈黙が訪れる。
ゲオルクは力なく笑みを浮かべ、首を横に振った。
「……どっちにしても良くないですね」
その乾いた呟きに、ヴェルナーは何も答えない。
ただ、書記官のペンが紙を走る音だけが、その言葉を記録していく。




