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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-022 死人に口あり 窃盗被告事件
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第85話:私は私だ

 書記官のペンが止まった。


 法廷に、冷ややかな静寂が降りる。


 ヴェルナーは手元の書類から顔を上げ、まっすぐに被告人席を見据える。


「法律上、人の死亡は心臓の停止と医師の確認をもって認定されます。あなたは両方を満たしています。法律上、あなたは死んでいます」


 冷徹な宣告だった。


 ゲオルクは微かに首を傾げる。怒りも、絶望もない。ただ自らの冷え切った腕へと視線を落とし、またゆっくりとヴェルナーへ向き直った。


「ええ。でもここにいます」


 静かな声だった。


「……」


 ヴェルナーは口を閉ざす。


 反論の余地がない。法律が彼を死者だと定義づけようとも、現実として彼は今、この空間に立ち、こちらを見つめ返している。


 ゲオルクは一歩だけ、証言台へ歩み寄った。


「裁判官殿。私が死体だとおっしゃるなら、この法廷で証言している声は何ですか。この目で見ている景色は何ですか。ハンスさんに金を返したいと思っている——この意思は、誰のものですか」


 立て続けに発せられた問い。


 声高に叫んだわけではない。だが、その言葉の一つ一つが、見えない楔となって法廷の床に打ち込まれていく。


 傍聴席のざわめきは完全に消え去っていた。検察官も、怒りに燃えていたハンスでさえ、身動き一つせずにゲオルクを見つめている。


「……」


 ヴェルナーは手元の羽根ペンを置き、両手を卓上で組んだ。


 答えるべき言葉を持たなかった。


「法律が私を死者と呼ぶなら、それは法律の都合です。私の都合ではありません」


 ゲオルクは淡々と告げた。


 法廷の空気が、さらに一段階深く沈み込んだ。


 ゲオルクは視線を落とし、白く変色した自らの手のひらを見つめ直す。


「……一つだけ言わせてください。生きていた頃は、腹が減って、酒が飲みたくて、それだけで頭がいっぱいだった。盗んだ金もすぐ使った。何も残らなかった」


 少しの間が空いた。


 ゲオルクは顔を上げ、今度は被害者であるハンスの方へと視線を向ける。


「死んでみたら——腹が減らない。眠くもない。酒も要らない。全部消えた。——だが、盗んだ時のハンスの顔だけが消えない。欲がなくなったら、それだけが残った」


 誰も言葉を発しなかった。


 時計の針が進む音さえも、この空間からは失われたかのようだった。


 ヴェルナーは組んだ手を見つめたまま、微かに呼吸を整える。


 彼はゆっくりと目を伏せ、静かに深く息を吐き出した。



◇◇◇



 長く吐き出された息が、法廷の冷たい空気に溶けていく。


 ヴェルナーはゆっくりと目を開き、木製の椅子の背もたれから上体を起こした。組んでいた手を解き、卓上に広げられたままの調書へと指先を伸ばす。


 彼の表情から先ほどの静寂の余韻が引いていく。


「蘇生を行ったネクロマンサーについて確認します。あなたは蘇生を望みましたか」


 抑揚のない、事務的な問いだった。


 被告人席のゲオルクは、かすかに首を傾げた。


「死んでいたので意見は聞かれませんでした」


 乾いた声だった。


 そのドライな返答に、傍聴席から小さく息を呑むような気配が漏れる。重く沈み込んでいた法廷の空気が、かすかに揺らいだ。しかし、そこに笑いは起きない。


 ヴェルナーは表情を変えず、手元の調書に視線を落とした。


「同意なき蘇生」


 誰に投げかけるでもない、短い呟きがこぼれる。


「ええ」


 ゲオルクは頷いた。


「生き返りたいと頼んだ覚えはありません。ただ、目が覚めたらこうなっていた」


 ヴェルナーはインク壺から羽根ペンを引き抜き、調書の余白に数行の文字を書き込んだ。書記官のペンが紙を擦る音だけが、少しの間だけ法廷に響く。


 インクが乾くのを見計らい、ヴェルナーはペンを置いた。


「ネクロマンサー・モーリッツ氏の蘇生行為の合法性については、別件として移送します。本件の審理範囲外とします」


 検察官は異議を唱えることなく、無言のまま短く顎を引いた。


 ヴェルナーは広げられていた書類をまとめ、卓上の端にきちんと揃えて置く。


 彼の目の前に残されたのは、一枚の白紙のみだ。


 両手を卓の上に置き、ヴェルナーはゆっくりと背筋を伸ばす。静まり返った傍聴席、検察官、ハンス、そして最後にゲオルクへと、静かに視線を巡らせた。



◇◇◇



 ヴェルナーは手元の分厚い書類を閉じ、その上に静かに両手を重ねた。


 法廷内の空気は重く、窓から差し込む午後の光さえも停滞している。


 検察官は背筋を伸ばし、裁判官の口が開くのを微動だにせず待つ。ハンスは身を乗り出し、祈るように拳を固める。被告人席のゲオルクは、ただ無機質な視線を床に落としていた。


 ヴェルナーは一度目を閉じ、深く息を吐く。


 それから、ゆっくりと顔を上げた。


「……本件は、この法廷が扱った中で、最も前例のない案件です」


 落ち着いた、しかし法廷の隅々まで通る声が響く。


「王国法には『アンデッド』の記載がありません。死者の法的地位についても、復活を想定した条文は存在しません。法律は生者のために作られました。死者が歩くことを、法律は想定していません。法の網目には、彼らが存在する場所がないのが現状です」


 ヴェルナーは言葉を切り、法廷全体を見渡す。


「しかし——。死んでいるからといって、犯罪が消えるわけではありません。ハンス氏は金を盗まれた。その事実は、ゲオルク氏の死によって消滅しません。法が想定していないからといって、目の前の被害を無視することは、司法の放棄に等しい」


 ハンスが短く息を呑む音が聞こえる。


「ゲオルク氏には記憶がある。意思がある。自分が犯した罪を認識している。そして——返したいと言っている。肉体の生理的機能が停止していても、人格としての連続性が認められる以上、そこには責任の主体が存続していると解釈すべきです」


 ヴェルナーは判決の主文を読み上げるため、姿勢を正す。


「判決を言い渡します。まず、被告ゲオルク氏の法的地位について。本法廷は暫定的に、同氏に法的主体性を認めます。ただし、これは既存の『生者』としての権利を復権させるものではなく、意思疎通の可能な死者としての『特殊主体』という位置づけです」


 検察官が手元のメモに鋭くペンを走らせる。


「次に、窃盗の刑事責任について。被告を、窃盗罪につき有罪とします。しかし、死体である被告に懲役を課すことは、刑罰の本旨に照らして不適切です。よって実刑は科さず、賠償命令のみを下します。被告は被害者ハンス氏に対し、盗品の返還に代わる賠償金として、4万5千クローネの全額を支払わなければなりません」


 ハンスが「よし……」と小さく呻き、膝を叩いた。


 ゲオルクは微かに眉を上げた。


「返済の手段についてですが」


 ヴェルナーは淡々と続ける。


「被告自身がそれを見つけること。死体であっても、労働は禁じられていません。死後の存在であっても、社会の中で役務を提供し、その対価を得る権利は認められるべきです」


 ゲオルクの視線がヴェルナーと交差する。


「なお、行政上の死亡届は取り消しません。法的には死亡したまま、特殊主体としての登録を別途行うものとします。また、先ほど述べた通り、ネクロマンサー・モーリッツ氏の件は別件として移送します。最後に——」


 ヴェルナーは木槌を手に取り、最後の一文を告げる。


「本判決は暫定的なものであり、アンデッドの法的地位に関する立法措置を王国議会に勧告する」


 硬い音が一度、法廷に鳴り響く。


 判決が確定し、書記官のペンが最後の一筆を終えた。


 静寂が法廷を包む。


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