第83話:胃薬で済まぬ日
王都の郊外に位置する療養院。石造りの廊下の突き当たりにある、白い壁に囲まれた個室。高い位置に設けられた鉄格子付きの窓から、午前の陽光が四角く切り取られて床に落ちている。光の帯の中を、微小な埃がゆっくりと舞っていた。
フリーダは、窓辺に置かれた木製の椅子に座っていた。彼女は療養院から支給された無地の衣服を身に纏い、両手を膝の上で重ねている。背筋は伸びているが、そこに緊張はない。
フリーダの顔は窓の方に向けられていた。窓の向こうには、王都の街並みと空が広がっている。しかし、彼女の視線は風景のどこにも焦点を結んでいない。ただ眼球が光の射す方向へ向けられているだけの、空っぽの目だった。まばたきの回数は極端に少ない。
背後で、個室の扉をノックする音が二回鳴った。フリーダは動かない。金属のドアノブが回り、扉が開かれた。白衣を着た治療師が、足音を立てて部屋の中へと入ってくる。治療師は木製のバインダーに挟まれたカルテを片手に持ち、フリーダの斜め前、視界に入る位置で立ち止まった。治療師は手元のカルテの記録にペン先を滑らせてから、ゆっくりと顔を上げた。
「フリーダさん。今日はどう感じますか」
フリーダは、その音声を聞いてから数秒遅れて、ゆっくりと首を治療師の方へ巡らせた。彼女の表情の筋肉は弛緩したままだ。口元がわずかに開き、抑揚のない、平坦な声が部屋の空気を震わせた。
「……何かを感じるべきなんでしょうか」
治療師は答えられない。
持っていたペンが空中で止まり、治療師は無言のまま視線をフリーダの顔から逸らし、床の石の継ぎ目へと落とした。フリーダは治療師の反応を待つことなく、再びゆっくりと首を窓の方へ戻した。重ねられた手は微動だにせず、ただ規則的な浅い呼吸の音だけが、静まり返った白い病室の中に響き続けていた。
◇◇◇
セラスが自治区の神殿に移送される。王都の護送馬車から降ろされた彼は、数名の衛兵から宗教自治区の神官たちへと引き渡された。
そこは神殿の奥深く、窓が一つも存在しない石造りの広間だった。四方の壁と床には、宗教自治区特有の複雑な幾何学紋様と術式が、隙間なく深く刻み込まれている。広間の中央に、セラスが立たされていた。彼の手首と足首にはめられた重厚な金属の拘束具から、太い鉄の鎖が伸び、床の頑丈な留め金に固定されている。
結界が展開される。広間の四隅に立つ神官たちが一斉に詠唱を始めると、床に刻まれた紋様が淡い光を放ち始めた。光の線は床から壁を這い上がり、空間全体を半球状に包み込む。
治癒魔法の封印が始まる。セラスの首筋にある神殿結界付きの拘束具が、周囲の空間と共鳴して鋭い高音を立てた。セラスは顔を伏せたままだ。
広間の入り口近くに、純白の法衣を着たベネディクト枢機官が立っていた。彼の傍らには、油を浸した布を巻いた松明を手にする神官が控えている。
——封印の途中。ベネディクトが神官に頷く。
ベネディクトはゆっくりと一歩前へ出た。結界の淡い光が、彼の顔の輪郭を照らし出す。彼は広間の中央に立つセラスを見据え、口を開いた。
「神律第三章第九条に基づき、セラスを異端者と認定する。神が授けた癒しの力を人を壊すために使った者は、神の恩寵から永久に除かれる」
ベネディクトの声は、石造りの空間に低く、重く反響した。松明を持っていた神官が、小さく息を吸い込む音が鳴った。神官はベネディクトの横顔を見上げ、僅かに声を震わせた。
「……枢機官。王都の判決は無期禁固です。火刑ではありません」
ベネディクトは神官の方へ顔を向けることなく、前方を向いたまま答えた。
「王都の判決は王都の判決だ。セラスは今、自治区の神殿にいる。自治区の土地で、自治区の結界の中にいる。——異端者の認定は自治区の権限です。王都に許可を求める必要はない」
「…………」
神官は口を閉ざし、松明を持つ手を体の横に下ろした。ベネディクトは静かな、しかし法廷で見せた時と同じ確信に満ちた声で告げた。
「火刑を執行しなさい」
広間の奥の扉が開き、さらに数名の神官が現れた。彼らは太く長い木の杭を運び込み、セラスの背後の床にあるくぼみに突き立てて固定した。
セラスが杭に縛られる。鉄の鎖が外され、代わりに太い麻縄が彼の胴体と腕を数重に巻き込み、杭に固く縛り付けた。彼の足元に、乾燥した薪が山のように積まれていく。
火が点けられる。
松明の火が薪に触れると、炎は瞬く間に広がり、パチパチと木を爆ぜる音を立てながら急速に立ち上がった。オレンジ色の火柱が、セラスの足元から腰へ、そして上半身へと舐め上がるように広がっていく。
治癒魔法は封印されていた。だが治癒術師の体に染みついた自動再生だけは、結界でも完全には消えなかった。
炎がセラスの皮膚を焼き焦がし、黒く炭化した肉が崩れ落ちる。しかし次の瞬間、その焼け焦げた傷口から新しい皮膚と肉が異常な速度で隆起し、元の形を形成していく。
焼けた肉が再生する。再生した肉がまた焼ける。
肉が炭化する音と、新しい細胞が結合する音が、炎の爆ぜる音に混じって広間を満たし続ける。松明を持っていた神官が、耐えきれないように一歩後ろへ下がり、ベネディクトの背中に声をかけた。
「……自動再生が残っています。結界で封じきれなかった」
ベネディクトは、燃え盛る炎を見つめたまま動かない。
「……自動再生が尽きるまで」
広間に立つ誰もが、それ以上言葉を発することはなかった。ただ、炎の熱気と、終わりなく繰り返される再生と破壊の音だけが、石の壁に反響し続けている。
昼が過ぎ、夜が来る。
まだ火は消えていない。
◇◇◇
翌朝。王都中央裁判所、ヴェルナー・クラフトの執務室。
東側の窓から差し込む透明な朝の光が、木製の重厚な机の上に積まれた書類の束を照らしている。ヴェルナーは椅子に座り、書類の一枚に目を通しながら羽ペンを走らせていた。
廊下から足音が近づき、短いノックの音が二回鳴る。扉が開かれ、書記官が足早に入室してきた。その右手には、封を切られた書状が一枚握られている。書記官はヴェルナーの机の前で立ち止まり、口を開いた。
「裁判官殿。宗教自治区から通達が届きました。——セラスを異端者と認定し、火刑を執行した、と」
ヴェルナーのペンが、紙の上で完全に停止した。インクの滴がペン先でわずかに震えている。
「…………何?」
ヴェルナーは手元の書類からゆっくりと顔を上げ、書記官の顔を見た。書記官は手に持った書状の文面に視線を落とし、読み上げた。
「封印の実務中に、自治区の権限で異端者認定を行い……」
「私の判決は無期禁固だ。火刑ではない」
ヴェルナーの声は低く、そして硬かった。書記官は書状から目を上げ、ヴェルナーの視線を正面から受け止めた。
「……自治区は、異端者認定は自治区の独自の権限であり、王都の判決とは別の手続きだと主張しています」
ヴェルナーが机を見る。右手のすぐ横、書類の束の端に、いつもの胃薬の小瓶が置いてある。
——手が伸びない。
ヴェルナーの両手は、ペンを握ったまま、机の表面で静止していた。小瓶に触れようとする動作の兆候すらない。
「……封印を委託しただけだ。執行を委託したのではない」
ヴェルナーの視線は小瓶から外れ、何もない机の空間へと落ちていた。書記官は書状を脇に抱え直し、静かに尋ねた。
「……抗議しますか」
長い沈黙。
執務室内の振り子時計が、規則的に秒を刻む音だけが鳴り続ける。ヴェルナーのまばたきが止まっている。やがて、彼はゆっくりと息を吐き出した。
「…………抗議して、何が戻る」
書記官は口を固く結び、何も言わずに直立姿勢を保った。ヴェルナーは手元の書類を一枚裏返し、机の脇にある別の束へと移動させた。そして、新しい書類を目の前に引き寄せる。
「……セラスを虐待した元傭兵団の審理、準備は」
「整いました」
「始めましょう。被告の裁判が終わったなら、次は加害者の番です。——どちらも裁く。それが法です」
ヴェルナーはインク瓶にペン先を浸し、新しい書類の文面に視線を固定した。書記官は一歩下がり、机の上の小瓶を一瞥した。
「胃薬を——」
「…………今日はいりません。胃薬で済む日ではなかった」
ヴェルナーのペンが、乾いた音を立てて紙の上を走り始める。書記官は深く一礼し、踵を返して執務室を出て行った。重い木製の扉が、静かに閉まる。
朝の光が差し込む部屋の中で、ただ書類をめくる音と、ペンが文字を刻む音だけが、変わらぬ速度で鳴り続けていた。




