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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-121号 治癒術師の復讐 人格破壊等被告事件
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第82話:保存した

 検察官が、自席から一歩前に出た。彼の視線は起訴状の束から離れ、正面の裁判官席に座るヴェルナーへと真っ直ぐに向けられている。


「もう一点、重要な事実があります」


 ヴェルナーは、手元の書類からゆっくりと顔を上げた。


「続けてください」


 検察官は、再び視線を落とした。机上の資料を指先でなぞりながら、彼は抑揚のない声で言葉を紡ぎ始めた。


「被告の治癒魔法は、脳の神経構造を書き換える能力を持ちます。書き換えられるということは——理論上、元に戻すことも可能です」


 法廷がざわめく。これまで極寒の静寂を保っていた傍聴席から、低い声が広がり始めた。隣の者と視線を交わす者、息を呑む者、わずかに身を乗り出す者。通路の脇に立つベネディクト枢機官は、握っていた書状をわずかに持ち上げ、検察官の横顔を鋭く見据えた。


 ヴェルナーは、そのざわめきを制止しなかった。木槌を鳴らすことも、静粛を求めることもない。彼はゆっくりと首を巡らせ、被告席のセラスに視線を固定した。そして、法廷に広がるざわめきを切り裂くように、冷たく、はっきりとした声で問いかけた。


「……被告。フリーダの人格は戻せますか」


 セラスは沈黙する。彼は顔を伏せたまま、微動だにしない。首筋に装着された神殿結界付きの拘束具が、淡い光を放っている。その光の明滅周期が、わずかに不規則になっていた。セラスの口は固く結ばれ、両手は被告席の縁に置かれたままだ。


 ヴェルナーは、視線を外さない。彼はセラスの沈黙を数秒間待ってから、短い言葉を発した。


「答えてください」


 セラスの肩が、微かに上下した。彼は顔を上げないまま、低く掠れた声で答えた。


「……できた」


 静まり返る。法廷を包んでいたざわめきが、一瞬にして完全に消え去った。セラスはゆっくりと顔を上げ、ヴェルナーを見つめ返した。伏せられていたその瞳の奥には、再び鋭い光が宿っている。


「だが戻さない」


 短く、硬質な断定だった。拘束具の光の明滅が、再び一定のリズムを取り戻す。検察官が、間髪入れずに問う。


「理由は」


 セラスは、検察官には目を向けなかった。彼はヴェルナーだけを真っ直ぐに見据えたまま、その言葉を叩きつけた。


「戻したら意味がない。俺が受けた苦しみを——一生思い出させるためだ」


 フリーダは傍聴席にいる。だが何も理解していない。空っぽの顔。


 セラスの怒りに満ちた声が響き渡っても、彼女の視線は虚空を漂ったままだ。その顔は穏やかで、何の感情も浮かんでいない。彼女の表情の筋肉が動くことはない。


 ヴェルナーの視線が、セラスから外れた。彼は傍聴席の最前列に座るフリーダへと視線を移し、数秒の間、その空虚な横顔を見つめた。そして、再びセラスへと視線を戻す。


「……つまり」


 ヴェルナーは、卓上で組んでいた両手をほどき、静かに机の上に置いた。


「あなたは罰したのではない。保存したのですね。人間を。壊れたまま」


 沈黙。


 セラスの唇がわずかに開いた。しかし、そこから音は発せられなかった。彼はヴェルナーの言葉を受け、ただ立ち尽くしている。首筋の拘束具の微かな擦れ音すら、今はもう鳴っていない。


 書記官のペンが、記録の最後の一行を書き留める。その乾いた音だけが、極寒の法廷に虚ろに響き渡った。


 法廷内に、重い沈黙が横たわっている。書記官のペンが発する乾いた音だけが、等間隔で石の壁に反響していた。


 被告席のセラスは、足元の床の石の継ぎ目を見つめたまま動かない。首筋に装着された神殿結界付きの拘束具から、鈍い銀色の表面を伝うように、淡い光が規則的に放たれている。彼の胸の上下動が、わずかに速くなっていた。両手が被告席の縁を掴む。木の表面を擦る微かな音が鳴った。


 セラスはゆっくりと顔を上げ、正面の裁判官席に座るヴェルナーを見据えた。


「……俺は」


 その声は、極寒の法廷の空気に低く響いた。彼は一度言葉を切り、喉仏を動かして唾を飲み込んだ。両手の指先に力が込められ、指の関節が白く変色する。


「俺は、間違ってない」


 しかし声が少し震えている。口元は固く結ばれ、ヴェルナーを見つめる瞳孔はわずかに収縮していた。身体の微かな震えに呼応して、拘束具の表面に刻まれた紋章が、チリ、と硬質な金属音を立てる。


 ヴェルナーは、セラスの言葉を聞き終えると、机の上に置かれていた分厚い起訴状の束に手を伸ばした。彼は一番上の表紙をゆっくりとめくり、視線を落とす。そして、姿勢を正し、背もたれから背中を離して真っ直ぐに伸ばした。法廷内の空気が、一段と冷たく静止する。傍聴席からは、衣擦れの音一つ、呼吸の気配すら完全に消え去った。


「判決を言い渡します」


 ヴェルナーの声が、法廷の隅々にまで行き渡る。検察官が直立の姿勢をとり、両手を体の横に揃えた。書記官が新しい羊皮紙を一枚引き寄せ、羽ペンの先をインク瓶に浸す。


「被告セラス」


 ヴェルナーは手元の書類から視線を上げ、セラスを真っ直ぐに見据えた。セラスは被告席の縁を掴んだまま、瞬きもせずにヴェルナーを見返している。ヴェルナーは、手元の書面に視線を落とすことなく、口頭で宣告を始めた。


「第一に、記憶改竄および人格破壊(複数件)について、有罪。第二に、私刑(復讐の実行)について、有罪。第三に、奴隷化(人格支配)について、有罪」


 三つの罪状が、連続した平坦な音声で読み上げられた。ヴェルナーは再び書類に目を落とし、次の頁をめくる。厚い紙が擦れる音が、静寂の中で鋭く響いた。彼は再び顔を上げ、セラスを見た。


「あなたは人を殺していません。ですが——人を人でなくしました」


 ヴェルナーは視線を横にずらし、傍聴席の最前列に座るフリーダを一瞥した。彼女は依然として、虚空を見つめたまま微動だにしていない。表情の筋肉は完全に弛緩している。


 ヴェルナーの視線が、再びセラスへと戻る。


「殺人は命を奪います。あなたがやったのは命を残したまま人格を奪うことです。——殺人よりも残酷だと、本法廷は判断します」


 セラスの肩が、微かに跳ねた。彼の下唇がわずかに震え、結ばれた口元から鋭い呼気が漏れる。首筋の拘束具が鈍い光を放ち、周囲の空気を微かに振動させた。


 ヴェルナーは言葉を区切り、書類の文字をなぞるように視線を動かした。


「記憶改竄および人格破壊の被害者は複数名。いずれも数年間の研究を経た計画的犯行。回復の可能性がありながら回復を拒否。——情状酌量の余地はありません」


 ヴェルナーは読み上げを止め、手元の書類を閉じた。紙の束が合わさる、重い音が机の上に響く。彼は両手を机の上で組み、セラスの顔から視線を外すことなく、ゆっくりと間を置いた。法廷内の時計が秒を刻む音と、セラスの浅い呼吸音だけが際立つ。


「量刑。無期禁固。治癒魔法および全スキルの永久封印」


 宣告の言葉が、冷たい石壁に吸い込まれていく。セラスの目に、一瞬だけ強い光が瞬き、そしてすぐに消えた。彼は被告席の縁からゆっくりと手を離し、両腕を体側に力なく垂らした。彼の首筋で、拘束具の光が明滅の速度を落としていく。


 ヴェルナーは組んでいた両手を解き、視線を法廷の通路脇へと向けた。そこに立つ、純白の法衣を纏った男へと。


「なお。被告の治癒魔法の封印は、自治区の神殿結界によって実施する必要があります。——枢機官。封印の実務について、自治区の協力を求めます」


 ベネディクトが立つ。彼は着席していた木製の椅子から静かに立ち上がり、身に纏った法衣の裾をわずかに払うようにして姿勢を正した。右手に握られた宗教自治区の紋章入り書状が、衣擦れの音とともに胸の高さまで持ち上げられる。ベネディクトは真っ直ぐにヴェルナーを見上げ、低く落ち着いた声で返答した。


「……自治区は、封印の実務を引き受けます」


 その顔に、感情の起伏は表れていない。眉は動かず、視線は揺らがず、ただ提示された要請に対する形式的な承諾のみが、音声として発せられた。


「感謝します。——封印完了後、被告は王都の禁固施設に収監されます」


 ヴェルナーが実務の段取りを告げる。ベネディクトは、持ち上げていた書状を下げ、短く一度だけ頷いた。


「承知しました」


 枢機官はそれ以上言葉を継ぐことなく、ゆっくりと元の場所へ着席した。白い法衣が椅子に触れる音が鳴り、法廷は再び静まり返った。検察官は腕を下ろしたまま、前方を向き続けている。


 ヴェルナーは、再びセラスへと視線を戻した。セラスは顔を伏せ、床の石の継ぎ目を見つめている。ヴェルナーは、机上に置かれた書類の束に右手を添え、静かに語りかけた。


「あなたが受けた被害については、別途審理を行います。あなたを虐待した者たちの罪は、あなたの罪とは別に裁かれます。——被害と加害は、別の天秤です」


 セラスは顔を上げなかった。ただ、首筋の拘束具の光が一度だけ強く明滅し、再び淡い光へと戻った。


 ヴェルナーは手元の書類を完全に揃え、机の右端へ移動させた。傍らに置かれていた木槌を右手に持ち上げる。滑らかな木製の柄が、彼の指の間に収まる。ヴェルナーは法廷の全域を見渡し、それから木槌を静かに、しかし力強く振り下ろした。


 乾いた、硬質な音が法廷に一度だけ響き渡った。


 書記官がインク瓶の蓋を閉める。法廷の側扉が開き、四人の衛兵が重い足音を立てて被告席へと近づいていく。セラスは抵抗する素振りを見せることなく、衛兵たちに囲まれた。金属の拘束具が擦れる微かな音が、冷たい空気の中をゆっくりと遠ざかっていく。


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