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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-121号 治癒術師の復讐 人格破壊等被告事件
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第81話:被害とは免罪符ではない

 フリーダが、二人の衛兵に前後を挟まれる形で法廷の中央から歩き出した。彼女の足音は、一定の速度と歩幅を保ったまま、石造りの床を踏み鳴らしていく。法廷の側扉の前で衛兵の一人が立ち止まり、金属製の大きな取っ手に手を掛けた。蝶番が重い音を立て、分厚い木の扉が開かれる。フリーダは一度も振り返ることなく、開かれた扉の向こう側へと姿を消した。残った衛兵が扉を閉める。金属の留め金が噛み合う、硬質な音が法廷の壁に反響した。


 直後、書記官がインク瓶の横に羽ペンを置いた。木とガラスが触れ合う小さな音が鳴る。それ以降、法廷内にはいかなる音も発生しなくなった。傍聴席には数百人の人間が着席している。しかし、誰一人として姿勢を変える者はなく、咳払い一つ、衣擦れの音一つ立てない。検察官は腕を組み、背筋を真っ直ぐに伸ばしたまま静止している。


 ヴェルナー・クラフトは、机上に置かれた書類からゆっくりと顔を上げた。背もたれから上体を離し、わずかに前傾姿勢をとる。彼の視線は、被告席に立つセラスに真っ直ぐに向けられた。ヴェルナーは、右手を書類の束の余白に置き、静かな声で発した。


「被告。弁明を」


 セラスは、フリーダが消えた側扉の方向を向いたまま、数秒間静止していた。やがて、彼はゆっくりと首を巡らせ、ヴェルナーと正面から視線を合わせた。彼の首筋に装着された神殿結界付きの拘束具が、皮膚と擦れて微かな音を立てる。鈍い銀色の表面に刻まれた紋章が、淡い光を放っている。


 セラスの唇は固く結ばれていた。彼の両腕は体側に垂れ下がり、拳はわずかに握り込まれている。鼻から深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。


 セラスの口が、開かれた。


「……俺がどれだけ苦しんだか知ってるのか。あいつらに何をされたか。道具扱いされて、殴られて、壊れたら替えが来ると言われて。——俺が先に被害者だったんだ」


 セラスの声は低かった。しかし、その音声は静まり返った法廷の最後列にまで届いていた。彼は一度言葉を切り、ヴェルナーの目を見据えたまま、さらに声を張った。


「あいつらは人じゃなかった。だから人として扱わなかった。当然だろ。俺は正当な報いを与えただけだ」


 セラスは言い切った後、口を閉ざした。呼吸のペースが速くなっている。拘束具の光の明滅周期が、それに合わせて短くなっていた。


 ヴェルナーは、セラスの言葉を聞き終えた後も、表情を一切変えなかった。机上の書類に目を落とすこともなく、ただセラスを見つめている。三秒の間が空いた。


「……被告。1つ確認します。あなたが受けた虐待について、法に訴えましたか」


 ヴェルナーの声には、抑揚がなかった。


 セラスの眉間がわずかに寄った。彼は顎を引き、声のトーンを落として答えた。


「……法? 法なんて信じられなかった。傭兵団は合法的に運営されてる。契約書もある。誰も俺の話を聞かなかった」


 セラスの身体が、前へ傾いた。両手が被告席の木の縁を掴む。その動作に伴い、首筋の金属が再び擦れる音を立てた。


 ヴェルナーは、姿勢を変えずに言葉を返した。


「……あなたの苦しみは認めます」


 セラスの顔が、わずかに上がる。被告席の縁を掴む両手に、力がこもる。


「なら——」


「ですが。あなたは今、『あいつらは人じゃなかった』と言いました。——あなたを虐待した者たちも、同じことを言っていたのではないですか」


 ヴェルナーの声が、法廷の空間に響いた。セラスの動きが、完全に停止した。被告席の縁を掴んでいた指先が固定され、口は半開きのまま止まっている。彼の目が、わずかに見開かれた。


「……なんだと」


 音量の低い、かすれた声だった。セラスは瞬きをせずにヴェルナーを見つめている。首筋の拘束具の光が、一定の明るさのまま静止した。


 ヴェルナーは、視線を外さない。


「あなたはフリーダを罰したのではありません。消したのです。そこにいるのはフリーダではありません」


 セラスの喉仏が動いた。彼は何かを発声しようとしたが、音は出なかった。半開きになっていた口が、ゆっくりと閉じられる。セラスの視線がヴェルナーから外れ、足元の石造りの床へと落ちていった。被告席の縁を掴んでいた両手が離れ、力なく体側へと垂れ下がる。


「…………」


 法廷内に、セラスの浅い呼吸音だけが微かに聞こえていた。彼は顔を伏せたまま、微動だにしない。


 ヴェルナーは、セラスの頭頂部を見つめてから、手元の書類へと視線を移した。彼は静かに、法廷全体へ届く声で告げた。


「被害の記憶は、加害の免罪符ではありません」


 書記官が、インク瓶の横に置いていたペンを手に取った。ペン先が紙に触れ、記録を書き留める乾いた音が鳴り始める。検察官は背筋を伸ばしたまま、正面を見据えている。傍聴席からは、依然として何の音も聞こえてこなかった。ヴェルナーは手元の書類をめくり、一枚の紙を脇に避けた。


 ヴェルナーが手元の書類をめくり、次の審理手続きへ移行しようとしたその時だった。法廷の最後尾にある重厚な両開きの扉が、外側から力強く押し開かれた。金属の蝶番が軋む低い音が、静まり返った空間に突如として響き渡る。


 扉の前に立っていた法廷警備の衛兵たちが、反射的に槍を交差させて侵入者を制止しようとした。だが、入ってきた人物の姿を認めた瞬間、衛兵たちは即座に槍を引き、道を開けた。


 法廷に足を踏み入れたのは、頭から足首までを覆う、純白の法衣を纏った人物だった。ベネディクト枢機官。宗教自治区の最高神官代理を務めるその男は、真っ直ぐに前を見据え、迷いのない足取りで中央通路を進んできた。その右手には、分厚い羊皮紙の書状が握られている。書状の表面には、宗教自治区の権威を示す紋章が、赤い蝋でくっきりと封印されていた。


 突然の事態に、傍聴席からわずかな衣擦れの音が漏れた。検察官は背筋を伸ばしたまま、通路を歩いてくる白い法衣の男へと視線を向ける。被告席のセラスは、顔の向きを変えることはなかったが、視線だけを動かしてベネディクトの姿を捉えていた。


 ベネディクトは、検察官の立つ位置と並ぶ場所まで進み出ると、そこで足を止めた。彼は裁判官席のヴェルナーを見上げ、挨拶や前置きを一切省き、口を開いた。


「裁判長。宗教自治区を代表し、本件に罪状の追加を求めます」


 低く、しかし法廷の隅々にまで反響する、威厳に満ちた声だった。ヴェルナーは、手に持っていたペンを静かに机の上に置いた。彼の表情に動揺はない。ただ真っ直ぐに、眼下に立つ枢機官を見返した。


「……枢機官。突然の入廷ですが」


 ヴェルナーの声は平坦だった。事実の確認以上の感情は含まれていない。ベネディクトは、右手に持った紋章入りの書状を胸の高さまで持ち上げた。


「治癒魔法は神が人に授けた力です。被告はこの力を逆用し、人の記憶を消し、人格を破壊した。——これは傷害にとどまらない。神が授けた力の冒涜です。神律秩序違反として罪状に加えることを要求します」


 法廷内に、重苦しい沈黙が降りた。書記官のペンすら止まっている。ヴェルナーは、一度だけ瞬きをし、ゆっくりと口を開いた。


「……枢機官。本法廷は王都中央裁判所です。王国法に基づく刑事裁判を行っています。神律上の罪は本法廷の管轄外です」


 ベネディクトは、持ち上げていた書状をわずかに下ろし、一歩だけヴェルナーの方へ踏み出した。


「世俗の傷害罪だけでは、この罪の本質を裁けない」


 ヴェルナーは、姿勢を崩さない。


「ただの傷害ではありません。記憶の消去。人格の破壊。人間としての尊厳の抹消。——これは人に対する罪の中で最も重い部類です。冒涜と呼ぶ必要はない。人の言葉で十分に重い」


「…………」


 ベネディクトは、言葉を返さなかった。彼の顎がわずかに引かれ、唇が固く結ばれる。書状を握る右手に力がこもり、羊皮紙が微かに軋む音を立てた。


 数秒の沈黙の後、ヴェルナーが告げた。


「枢機官の罪状追加要求は記録に残します。——しかし罪名としての"冒涜"は、王国法に存在しません。存在しない罪では裁けません」


 書記官が、弾かれたようにペンを動かし始めた。インクが紙を擦る音が響く中、ベネディクトが静かに問うた。


「……法にない罪は裁けないのか。目の前にこれだけの罪があっても」


 ヴェルナーは、机上に置かれた起訴状の束を一瞥し、再びベネディクトへ視線を戻した。


「法にない罪で裁くことは、法ではありません。——枢機官。それをやり始めたら、我々は被告と同じです。自分のルールで人を裁く人間になる」


 法廷の空気が、完全に静止した。ヴェルナーの声は決して大きくはなかったが、その一言は、石の壁に囲まれた空間の最も深い底まで届いていた。被告席のセラスの首筋で、拘束具の光が微かに揺らいだ。


 ベネディクトは、それ以上何も言わなかった。彼は右手の書状を完全に下ろし、背筋を伸ばしたまま、口を閉ざした。彼はその場に留まり、ヴェルナーを見据え続けていた。


 ヴェルナーはベネディクトから視線を外し、手元の書類へ静かに目を落とした。書記官のペンが、記録の続きを刻む音だけが、極寒の法廷に再び響き始めた。


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