第80話:怒りの感覚
法廷の側扉が、重い音を立てて開かれた。二人の衛兵に前後を挟まれる形で、一人の女性が姿を現す。
フリーダ。かつて傭兵団『血盟旅団』の戦闘員として名を連ねていた女だった。
彼女の体格には、長年戦場に身を置いてきた者特有の厚みが残っている。広い肩幅、引き締まった腕、太く節立った指先。幾度も武器を振るい、命を奪い合ってきたであろう強靭な肉体だ。しかし、彼女が身に纏っているのは、市井の女性が着るような無地の簡素な衣服だった。そして何より、その歩みには、軍人らしい機敏さや周囲への警戒が完全に欠落していた。
フリーダの足取りは緩慢だった。表情は穏やかで、顔の筋肉は弛緩している。傍聴席を埋める数百人の視線を浴びても、彼女の眉一つ動かない。怒りも、悲しみも、緊張すらも、その顔には存在しなかった。
証言台の前に到達すると、衛兵が手で制した。フリーダは言われた通りに歩みを止め、ただ正面を向いて直立した。視線は宙を漂い、特定の誰かを見据えることはない。
ヴェルナーは、手元の記録からゆっくりと顔を上げた。彼は証言台に立つフリーダを真っ直ぐに見つめ、静かに、ゆっくりとした口調で問いかけた。
「フリーダさん。あなたの名前を教えてください」
フリーダは、ヴェルナーの声に反応して少しだけ首を傾けた。一拍の間の後、平坦な声が法廷に響いた。
「……フリーダ、です」
声の抑揚はない。
ヴェルナーは小さく一度だけ頷き、机上の書類に視線を落とすことなく、次の質問を口にした。
「あなたは以前、傭兵団『血盟旅団』の戦闘員でしたね」
フリーダの顔に、戸惑いの色は浮かばなかった。彼女は穏やかな表情を崩さないまま、わずかに首を横に振った。
「……そう……なんですか? 覚えていません」
書記官のペンが、乾いた音を立ててその言葉を書き留める。傍聴席からは、衣擦れの音一つ聞こえない。
ヴェルナーは、数秒の間を置き、今度は被告席に座る男の方向へわずかに視線を流した。そして、再びフリーダを見て、言った。
「セラスという人物を知っていますか」
フリーダは、自分のすぐ斜め後ろに座っているセラスの方を振り返ろうともしなかった。ヴェルナーを見たまま、微かな疑問の音だけを口からこぼした。
「……誰ですか」
法廷が凍る。
息の詰まる静けさだった。
セラスは、証言台に立つフリーダの背中を見つめていた。その目は見開かれることもなく、唇は固く真一文字に結ばれている。だが、彼の喉仏が微かに上下に動き、その拍子に、首筋の神殿結界がチリ、と硬質な金属音を鳴らした。拘束具の表面に刻まれた紋章が、一瞬だけ強く明滅し、再び淡い光へと戻る。
ヴェルナーは、微動だにしない。彼はただ、目の前に立つフリーダを見据えていた。
「……」
ヴェルナーの沈黙が、重く法廷に広がる。彼は深く息を吸い、静かに吐き出してから、次の言葉を紡いだ。
「あなたは今、何を感じていますか」
フリーダは、自分の胸元に視線を落とし、それから再びヴェルナーの顔を見た。その瞳に、内面の色は何も浮かんでいない。
「……何も。何も感じていません。……何かを感じるべきなんでしょうか」
ヴェルナーは、卓上のペンに触れようとした指を止め、ゆっくりと膝の上に下ろした。彼のまばたきの回数が減る。
「……」
ヴェルナーの口は、すぐには開かれなかった。証言台のフリーダは、問いを待つようにただ静かに立っている。彼女の太い腕は、体の脇に力なく垂れ下がったままだ。
「……あなたは怒りを感じますか」
フリーダは、瞬きを一つした。彼女の口元が、わずかに半開きになる。
「……怒りって、どういう感じですか」
沈黙。
書記官のペンが、宙で止まっていた。インクの滴が、紙の上に落ちることもなく、ただペン先で震えている。検察官は腕を組んだまま、動かない。セラスの視線は、フリーダの足元に向けられていた。拘束具の微かな擦れ音すら、今はもう鳴っていなかった。
フリーダは、静まり返った法廷の中で、誰にともなく問いかけた。
「……私、昔は怒ったことがあったんでしょうか」
誰も、答えない。
ヴェルナーは、フリーダからゆっくりと視線を外し、手元の書類へと目を伏せた。書記官は、固く目を閉じ、ペンをインク瓶の横に置いた。木と木が触れ合うかすかな音が、広大な法廷に虚ろに響き渡った。




