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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-121号 治癒術師の復讐 人格破壊等被告事件
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第79話:数年間の計画

 石造りの床を、法靴が踏みしめる音が響く。


 王都中央裁判所、刑事法廷。


 裁判官席に向かうヴェルナー・クラフトの歩調は、いつもと変わらない。だが、その背後に漂う空気は、かつてのどの開廷時とも異なっていた。


 ヴェルナーは法服の裾を整え、重厚な椅子に腰を下ろした。


 卓上には、厚い起訴状の束と、一本のペン、そして水の入ったグラスだけが置かれている。


 ヴェルナーの視線が、卓上の右隅に落ちた。いつもならそこにあるはずの、胃薬の小瓶は、今日はそこにない。


 今日はそういう日ではない。


 ヴェルナーは一度だけ深く息を吐き、視線を上げた。


 傍聴席は、最後列まで埋め尽くされていた。それにもかかわらず、法廷内には、耳が痛くなるほどの沈黙が満ちている。隣の席の者と囁き交わす者も、衣擦れの音を立てる者もいない。


 検察官は、直立不動の姿勢で起訴状を手にしている。書記官は、表情を一切変えず、羽ペンの先をインク瓶に浸したまま、微動だにしない。


 ヴェルナーが、静かに口を開いた。その声に、いつもの困惑や苦笑の気配は微塵もない。


「王都中央裁判所刑事法廷を開廷します。——被告、セラス。治癒術師。複数の記憶改竄および人格破壊の容疑」


 法廷の側面の重い扉が、ゆっくりと開かれた。入廷してきたのは、二十代後半の男だった。


 セラス。


 かつて治癒魔法の天才と称えられたその男の両手首、そして首筋には、重厚な金属製の拘束具がはめられていた。


 それは、宗教自治区から特別に提供された、神殿結界付きの拘束具だった。鈍い銀色の表面には、複雑な神殿の紋章と術式が刻まれており、絶え間なく淡い光を放っている。その光は、セラスの体内を巡る魔力を完全に遮断していた。


 今の彼は、触れても治せず、触れても壊せない。


 セラスは、監視の衛兵に伴われ、ゆっくりとした足取りで被告席へと向かった。足枷はない。身体の自由は奪われていない。だが、歩みを進めるたびに、拘束具の術式が空気を震わせ、金属が擦れ合うかすかな音だけが、静まり返った法廷に響いた。


 被告席に辿り着いたセラスが、足を止めた。彼はゆっくりと顔を上げ、裁判官席のヴェルナーを見据えた。


 セラスの目は、死んでいなかった。絶望も、諦念も、そこにはない。ただ、研ぎ澄まされた刃のような、鋭い怒りだけが、その瞳の奥に沈んでいた。


 ヴェルナーは、その視線を正面から受け止めた。逸らさず、揺らがず、ただ一人の裁判官として、被告の姿をその目に焼き付ける。セラスの唇は固く結ばれたままだ。


 ヴェルナーは手元の書類へ視線を落とした。書記官のペンが、乾いた音を立てて紙の上を走り始めた。


 書記官のペンが紙を走る、乾いた音だけが法廷に響いている。ヴェルナーは微動だにせず、正面を見据えていた。傍聴席の静寂は深く、数百人の人間が息を潜める気配が、冷気となって肌を刺す。


 検察官が、ゆっくりと起訴状の頁をめくった。彼は被告席に視線を向けることなく、手元の書面へ視線を落としたまま、一歩前へ出た。


 検察官が口を開く。その声は低く、法廷の隅々まで明瞭に通った。


「被告の経歴について、事実関係を提示します」


 検察官は書面を読み上げ始めた。


「被告は傭兵団『血盟旅団』において、専属治療師として契約により拘束されていました。契約書に解除条項はなく、事実上の強制使役でした。虐待の記録があります。これは事実です」


 法廷内に、かすかな動揺すら起きなかった。あまりの静寂に、検察官の声の残響が石壁に吸い込まれていくのが分かる。検察官は言葉を継ぐことも、その事実を強調することもしない。


 ヴェルナーは検察官から視線を外し、ゆっくりと被告席のセラスを見た。セラスの表情は、入廷時から変わっていない。拘束具の光が彼の顎のラインを淡く照らしている。ヴェルナーは、卓上の水を一口も啜ることなく、言葉を発した。


「被告が過去に被害を受けたことは、本法廷も認めます」


 その一言が発せられた瞬間だった。


 セラスの眉が、微かに動いた。固く結ばれていた彼の唇が、ほんの数ミリだけ緩む。ヴェルナーを見据えていた瞳に、わずかな揺らぎが生じた。


(認めるのか)


 ヴェルナーはセラスから目を離さない。


 ヴェルナーは手元の書類を一枚、静かにめくった。姿勢を正し、座り直す。


「ですが、本件の審理はそこからです。被害の後に、被告が何をしたか」


 セラスは、ヴェルナーから視線を逸らした。ゆっくりと顔を伏せ、自分の指先を見つめる。神殿結界付きの拘束具が、彼の動きに合わせてチリ、と微かな金属音を立てた。


 検察官が、次の書類を手に取った。書記官のペンが、再び走り始める。


 ヴェルナーは、ペンを手に取った。指先がインクの冷たさに触れた。


 検察官が起訴状の束を台の上に置いた。紙束が木製の台に触れる、乾いた音だけが静まり返った法廷に響く。検察官は一度、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、それからセラスの方へ顔を向けた。視線は、セラスの顔ではなく、その首に装着された神殿結界の紋章に固定されている。


 検察官が口を開いた。その声は低く、抑揚を完全に排した事務的な響きを持っていた。


「被告の行動記録、および技術的背景について述べます」


 検察官は、書類の一枚をめくった。


「被告は数年前に傭兵団から脱走しました。その後、身を隠しながら治癒魔法の研究を独学で続けています。——脳の神経構造への干渉技術を数年かけて完成させました」


 ヴェルナーは、手元の羽ペンを動かした。書類の余白に、検察官が告げた「数年間」という言葉を書き留める。ペンの先が紙を削る音が、検察官の声の合間に差し込まれた。


 ヴェルナーはペンを置き、セラスを見た。セラスは、微動だにしない。首筋の拘束具から放たれる淡い光が、規則的な周期で強弱を繰り返している。


 検察官は、次の頁へ視線を移した。


「治癒魔法の本質は人体構造の改竄です。骨をつなぎ、肉を再生する——その精度を極限まで高めれば、脳の神経回路を書き換えることが可能になります。被告はそれを実現しました」


 傍聴席の誰かが、小さく息を呑む音がした。だが、言葉を発する者はいない。


 検察官は、その反応を無視して言葉を継いだ。


「被告は技術の完成後、傭兵団のもとに戻り、以下の人物の記憶を改竄しています」


 検察官は、別の書面を手に取った。そこには、複数の氏名と役職が記されている。検察官は、その名前を一つずつ、均等な間隔を置いて読み上げ始めた。


 人名の朗読が続く間、書記官のペンは止まることなく動き続けていた。ヴェルナーは、読み上げられる名簿と、手元の資料を照らし合わせる。セラスは視線を床に落としていた。固く結ばれた唇は、わずかな震えも見せない。神殿結界の術式が空気を震わせ、チリ、と微かな金属音を立てた。


 最後の名前が読み上げられ、法廷に再び沈黙が戻った。検察官は名簿を台に置き、背筋を伸ばした。彼は裁判官席のヴェルナーを真っ直ぐに見据え、最後の一節を口にした。


「数年間の準備。独学の研究。技術の完成。帰還。実行。——これは衝動ではありません。全て計画的です」


 検察官はそう断定すると、持っていた書類を閉じた。留め具が噛み合う音が、静寂の中で鋭く響いた。


 ヴェルナーは、閉じられた書類の表紙を見つめた。それからゆっくりと顔を上げ、書記官に視線を送った。書記官は小さく頷き、記録の最後の一行を書き終えた。


 法廷内の空気は、澱むことなく、ただ冷たく静止している。ヴェルナーは椅子に深く背を預けた。机の上には、依然として胃薬の小瓶はない。


 検察官が、自席へと戻る。その足音だけが、石造りの床に吸い込まれていった。


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