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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
K-020号 赤狼、内訟裁判 技能窃取被告等
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第78話:思い込みと、事実と

 法廷を満たす重苦しい静寂の中、検察官は反論の糸口を完全に見失い、手元の資料に視線を落としたまま動かない。


 法廷を支配していた推測と感情の応酬が終わり、客観的な事実だけがそこには残されていた。ロレンツは手元の分厚い記録に一度だけ視線を落とし、ゆっくりと顔を上げる。


「判決を言い渡します」


 穏やかで、しかし一切の揺らぎを持たない声が高い天井へと響く。法廷にいるすべての者の視線が、法壇の上に立つただ一人の裁判官へと集中した。裁きを下す者の冷徹な静けさが、空間全体を支配していく。


「検察の証拠4点。第一、目撃証言。基礎技能と固有技術の区別がつかない。第二、成長速度。正当な指導と修練で説明がつく。第三、競合の先行攻略。時系列が合わない。第四、動機。動機は証拠ではない」


 淡々とした事実の確認が、これまでの審理の道筋を明確に整理していく。検察側が積み上げてきた四つの証拠が、一つ、また一つと冷徹な論理によって退けられていく。思い込みに基づく主張が、客観的な事実によって正しく整理された。検察官は何も言えず、ただその宣告を聞き届けるしかない。


 ロレンツは羽ペンをインク壺の横に置き、一段低い場所で背を丸めている被告へと真っ直ぐに眼差しを向ける。


 法廷の空気が、極限まで張り詰めた。傍聴席の冒険者たちも呼吸を忘れ、次に発せられる言葉を待ち受けている。絶対的な権力を持つ裁判官の唇が、ゆっくりと開かれる。


「被告ナタン。技能窃取罪について。——無罪」


 静かな、しかし決定的な宣告が落ちる。


 傍聴席からかすかなざわめきが漏れ、それはすぐに圧倒的な静寂へと飲み込まれていく。エルザが喉の奥で短く息を呑む音が、石造りの空間に痛いほど響いた。


 その隣に座るガレスは、血の気を失った顔を完全に硬直させている。証言台に立った時の余裕は微塵もなく、ただ突きつけられた現実の前で身動きを取ることもできない。自分が組み上げた虚構が完全に崩壊したことを、彼は誰よりも正確に理解していた。


 被告席のナタンは、ゆっくりと顔を上げた。


 自分に下された逆転の判決を聞いても、彼の表情に劇的な歓喜の色は浮かばない。ただ、長い間背負い続けてきた分厚い徒労感がわずかに和らいでいく。彼は小さく乾いた息を吐き、静かに瞬きを繰り返した。幾度も他人の悪意に晒され、すべてを諦めきっていた瞳の奥に、人間らしい静かな安堵の光が宿る。


「疑わしきは被告人の利益に。4つの証拠は全て合理的な反証が存在します」


 ロレンツの言葉は、法というシステムの冷徹さと公平さをありのままに体現している。客観的な証拠がなければ、何人たりとも罰することはできない。その当たり前の大原則が、一人の冒険者を不当な汚名から救い出したのだ。


 ロレンツは再び視線を傍聴席へと向け、最前列に並ぶ『赤狼』のメンバーたちを見据えた。彼の声の温度が、ここでわずかに一段階下がる。


「なお。告訴人エルザに悪意があったとは認定しません。——だが、根拠の薄い告訴を主導した者、そして本法廷で自身の主導を偽った者がいます。ガレス氏に対し、虚偽告訴の教唆および偽証の疑いで、検察に調査を勧告します」


 その宣告は、傍聴席にいるガレスにとって逃れられない致命的な一撃となる。


 自身の失敗を隠蔽するために用意した法廷が、そのまま彼自身を裁く場へと変わった。ガレスは震える手で自身の膝を強く握りしめ、ただ深くうつむく。エルザは信じられないというように、崩れ去ったリーダーの横顔を呆然と見つめていた。自分が信じていた正義が、実は悪意によって操られていたものだったという事実に、彼女はまだ追いつけていない。


 法廷の空気が最終的な静けさへと落ち着く中、ロレンツは法壇の上で静かに姿勢を正す。彼の眼差しは、法廷にいるすべての者へ向けられていた。


「失敗は罪ではありません。だが失敗を他人の罪にすることは、罪です」


 宣告の重い余韻だけを残し、乾いた木槌の音が法廷に響き渡る。


◇◇◇


 法廷の重厚な両開き扉を押し開け、ガレスが外の光の中へ歩み出る。裁判所の正面玄関に続く大階段を、彼は迷いのない足取りで下りていく。その後ろを、魔法使いのエルザが小走りでついていく。二人の歩みには、先ほどまで立っていた法廷の重圧を背負う気配はない。


 ガレスは肩を竦め、いつもの余裕のある態度をすっかり取り戻している。己の不作為が暴かれ、偽証の疑いで調査勧告まで受けたというのに、彼の表情に焦りや後悔の色は浮かんでいない。


「やれやれ。裁判官がああ言うなら仕方ないけど、俺は間違ってないと思うけどね」


 ガレスの口から、いつもの口癖が自然とこぼれ落ちる。それは法廷で追い詰められた時のぎこちない強がりではない。心底からの呆れを含んだ、彼本来の響きだ。自分が間違っていたとは微塵も思っていないし、これから自分の身に降りかかる事態の重さもまったく理解していない。


「……ガレスが間違ってるわけないわ」


 エルザが弾かれたように同意の言葉を口にする。法廷で見せたあの微かな疑念は、すでに彼女の中から完全に消え去っている。自分の信じる正義が揺らいだ事実から目を背け、再び頼れるリーダーの背中を盲信するかつての彼女へと元通りに収まっていた。


 二人はそのままリベルタスの喧騒の中へと歩いていく。自分たちが犯した罪の重さを振り返ることは、ただの一度もない。


◇◇◇


 裁判所の裏手にひっそりと設けられた、港区へと続く通用口。その冷たい石壁の影に、杖をついたミヒャエル老が静かに立っている。法廷の喧騒から遠く離れたこの場所には、夕暮れの冷たい海風が吹き抜けていく。やがて重い鉄扉が開き、ナタンがゆっくりと姿を現す。


「……終わったか」


「……はい」


 短い言葉の交わし合い。法壇の前であれほど雄弁に真実を突きつけ、堂々と検察の論理を崩してみせた老人は、すっかり元の寡黙な斥候に戻っている。彼の声には劇的な勝利を祝うような特別な響きもなく、ただ日々の報告を受け取るような平坦さがあった。


「明日も来い。基礎の反復だ」


「……はい」


 ナタンは小さく頷く。逆転無罪という劇的な結末を迎えても、彼らの日常が急に華やかになるわけではない。法廷で証明されたのは、彼らが日々積み重ねてきた地道な訓練の正当性だけだ。だからこそ、明日も同じように港区の片隅で歩幅を合わせる。


 ミヒャエルは杖をつき直し、ナタンの顔を真っ直ぐに見据える。その深く刻まれた皺の奥にある瞳が、静かな熱を帯びて光る。


「お前は何も盗んでいない。自分の足で歩いただけだ。——それを忘れるな」


 老人の言葉は短く、そして決定的な重さを持っていた。長年浴び続けてきた理不尽な偏見と、自分の歩みに対する深い諦め。それらすべてを肯定する確かな真実が、そこにあった。


 ナタンは俯いていた顔をゆっくりと上げる。その瞳の奥が夕日に照らされ、かすかに潤みを帯びている。


「…………はい」


 絞り出された三度目の返事は、これまでの無気力な響きとはまるで違っていた。ナタンは老人の背中を追いかけ、自分の足で確かな一歩を踏み出す。


◇◇◇


「今日の被告、ずいぶん静かでしたね」


 夕闇が迫る裁判官室に、書記官の何気ない声が響く。主のいなくなった法廷から引き揚げてきた書類の束を整理しながら、彼は思い出したように口を開いた。部屋の中には、インクの匂いと紙の擦れる乾いた音だけが満ちている。


 ロレンツは執務机の奥に立ち、窓の外を静かに見下ろす。夕日に染まるリベルタスの街並みは、今日一つの判決が下されたことなど気にも留めないように、いつもの活気を保ち続けていた。


「ああ。何も言わなかった。——だが証拠を正確に調べたら、ナタンは無実だった」


 窓ガラスに映る街の灯りを見つめながら、ロレンツは淡々と答える。彼の声に感情の昂りはない。無実の者を救ったというヒロイズムも、虚偽を暴いたという優越感もそこには存在しない。ただ、法廷という場に持ち込まれた事実を正確に整理しただけだ。


 ロレンツは窓辺から離れ、執務机へと歩み寄る。机の上に置かれた分厚い記録へと、ゆっくりと視線を落とした。


「思い込みが4つ並んでも、事実が4つ並ぶことには勝てない」


 静かな部屋に響いたその一言は、誰に向けられたものでもない、純然たる真理だった。裁判所の分厚い壁の向こうで、また新しい夜が静かに始まろうとしている。


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