第70話:あなたのルールは、この法廷には適用されません
ルイーゼが顔を右へ向ける。
「陪席のディートリッヒに、数字の検証を求めます」
ディートリッヒが手元のバインダーをゆっくりと開く。紙の束が擦れる音が天井へ吸い込まれた。彼の顔には微かな変化すらない。計算書記官へ視線を滑らせる。
「被告が主張する債務額を確認します。計算書記官」
書記官が背筋を伸ばす。
「元金三八四〇〇。日利一〇パーセント。二四〇日。複利。——計算してください」
計算書記官の右手が即座に動く。羽根ペンが羊皮紙の上を滑り出した。カリカリと小気味よい摩擦音が静寂の法廷に響き渡る。
やがて、ペンの動きが不自然に鈍る。
ペン先が紙面の上で完全に停止した。書記官の喉仏が上下に動く。ペン先から膨れ上がった黒いインクの雫が重力に負けて滴り落ち、羊皮紙の余白に丸い染みを作った。
「……陪席殿。桁が……」
ディートリッヒは瞬き一つしない。
「読み上げてください」
「……約五四〇兆です」
傍聴席から、短い息が幾重にも重なる。誰かが引きつったような笑い声を漏らす。現実離れした数値は、恐怖の境界を飛び越えて奇妙な滑稽さすら帯びている。
被告人席のファイトだけが、背もたれに体を預けたまま満足げな薄ら笑いを浮かべている。
ディートリッヒの表情は揺らがない。
「参考までに。この世界に生きる全ての人間の最大生命力を合算しても、この数字には届きません。全人類の生命力を集めても返済不能な額を、三人の人間に請求しています」
「被告が設定した日利一〇パーセントは、王国利息制限法の上限年利一五パーセントの約二四三倍です。スキルの説明文に利息の機能はない。数字の根拠がありません」
ディートリッヒがバインダーを閉じる。
◇◇◇
ルイーゼが正面を見据えた。
「検察官。論告を」
ユストゥスが音もなく立ち上がる。漆黒の法服の裾が床に影を落とす。
「論告します」
「被告は追放された被害者を自称しました。——事実は逆です」
ユストゥスは机上の書類へ一瞥もくれない。両腕を体の側面に自然に下ろしたまま言葉を紡ぐ。
「指導記録は七回。事前通告あり。猶予期間あり。除名はパーティー編成権に基づく正当な措置でした。追放は不当ではありません」
「被告は除名後、在籍中の融通を遡及的に貸付と主張しました。しかし合意書はない。相手方の署名はない。利率の説明もない。帳簿は被告が単独で作成したものです。貸借合意は存在しません。架空債権です」
傍聴席の最前列で、車椅子のブリギッテがわずかに身を縮める。隣に立つオットーの手が、彼女の肩を覆う毛布の端を固く握りしめた。
「被告は自動回収機能で三名から生命力を強制回収し続け、二十四歳の女性を歩行不能にしました。——被告が追放されてから自動回収を開始するまでの間、被告が被害者であった期間は何日あるでしょうか」
ユストゥスの声が、ふつりと途絶える。
沈黙が法廷の隅々までを満たす。ファイトの顔から、傲慢な薄ら笑いが完全に消え去っている。
「〇日です。——除名されたその日に帳簿を根拠に回収を始めています。被害者であった瞬間が、存在しない。被害者を自称して加害した。検察は全罪状について有罪を求めます」
一切の余韻を残さず、ユストゥスは検察官席に腰を下ろした。法服の襟元が微かに揺れ、そして静止する。
◇◇◇
ファイトの顔が変わる。
パイプ椅子の背もたれに預けていた背中が跳ね上がった。額の皮膚の下で血管が脈打ち、薄い唇が不規則に引きつる。机の縁を掴む両手の爪先が白く変色している。
「……ふざけるなよ。俺のスキルだ。俺の生命力だ。俺が誰にどう貸そうが——」
ルイーゼが顔を上げ、正面の被告を見据えた。
「被告。判決の前に——」
「黙れ」
傍聴席の最前列で、オットーがブリギッテを庇うように半歩前に出た。ハルトマンは伏せていた顔を上げ、隣の被告へ視線を向ける。ファイトは机の上に両手をつき、前傾姿勢のままルイーゼをねめつけた。
「お前もだ、裁判官。——お前にも貸し付けてやろうか。強制的に。今すぐ。お前の体に俺の生命力を流し込んで、利息つけて——お前もブリギッテみたいにしてやる」
沈黙。
ルイーゼの表情が消える。元コントラクト。「強制的に」。体が知っている言葉だ。
だが手は震えない。
ルイーゼが口を開く前に、ユストゥスが立った。
「裁判長。罪状の追加を求刑します」
「被告は今、法廷において裁判官に対し、スキルによる強制的な生命力の注入と回収を示唆しました。以下を現行犯で求刑します」
ユストゥスは両腕を体の側面に下ろしたまま、罪状を並べていく。
「法廷侮辱。法廷の秩序を著しく乱す言動」
「公務執行妨害。裁判官の職務に対する妨害の意図」
「不正司法介入。スキルの行使をもって裁判官の判断に干渉しようとする行為」
「脅迫。裁判官の身体に対する害悪の告知」
ルイーゼが書記官に目を向ける。
「……書記官。今の発言を記録してください」
「記録しました」
上擦った声が即座に返る。
「検察の求刑を認容します。法廷侮辱は現行犯です。本法廷の権限で即時に付加罰を科します。——ただし、法廷内犯罪の即日審理には弁護人の同意が必要です」
ルイーゼの視線が、傍聴席の最後列に向かう。
「ハルトマン氏。即日審理について——」
「私はすでに解任されています」
淡々とした声が傍聴席から返る。
法廷が静まる。弁護人がいない。被告が自分でクビにした。
「……弁護人不在の場合、同意手続きは省略されます。——被告が自ら招いた結果です」
「おい——待て——俺はただ——」
ファイトの声が上擦る。机を掴む手が離れ、空中で意味もなく彷徨った。
「"ただ"何ですか。——あなたは今、二十四歳の女性を歩けなくしたのと同じことを、この法廷で裁判官に対してやると宣言しました。被害者の前で。——それが"ただ"ですか」
「…………」
ファイトの唇が何度か開閉するが、音は出ない。
ルイーゼは卓上の木槌を取り、台座を一度打つ。
「判決に移ります」




