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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
KZ-318号 生命力のカラス貸し 重傷害・請求無効確認事件
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第70話:あなたのルールは、この法廷には適用されません

 ルイーゼが顔を右へ向ける。


「陪席のディートリッヒに、数字の検証を求めます」


 ディートリッヒが手元のバインダーをゆっくりと開く。紙の束が擦れる音が天井へ吸い込まれた。彼の顔には微かな変化すらない。計算書記官へ視線を滑らせる。


「被告が主張する債務額を確認します。計算書記官」


 書記官が背筋を伸ばす。


「元金三八四〇〇。日利一〇パーセント。二四〇日。複利。——計算してください」


 計算書記官の右手が即座に動く。羽根ペンが羊皮紙の上を滑り出した。カリカリと小気味よい摩擦音が静寂の法廷に響き渡る。


 やがて、ペンの動きが不自然に鈍る。


 ペン先が紙面の上で完全に停止した。書記官の喉仏が上下に動く。ペン先から膨れ上がった黒いインクの雫が重力に負けて滴り落ち、羊皮紙の余白に丸い染みを作った。


「……陪席殿。桁が……」


 ディートリッヒは瞬き一つしない。


「読み上げてください」


「……約五四〇兆です」


 傍聴席から、短い息が幾重にも重なる。誰かが引きつったような笑い声を漏らす。現実離れした数値は、恐怖の境界を飛び越えて奇妙な滑稽さすら帯びている。


 被告人席のファイトだけが、背もたれに体を預けたまま満足げな薄ら笑いを浮かべている。


 ディートリッヒの表情は揺らがない。


「参考までに。この世界に生きる全ての人間の最大生命力を合算しても、この数字には届きません。全人類の生命力を集めても返済不能な額を、三人の人間に請求しています」


「被告が設定した日利一〇パーセントは、王国利息制限法の上限年利一五パーセントの約二四三倍です。スキルの説明文に利息の機能はない。数字の根拠がありません」


 ディートリッヒがバインダーを閉じる。


◇◇◇


 ルイーゼが正面を見据えた。


「検察官。論告を」


 ユストゥスが音もなく立ち上がる。漆黒の法服の裾が床に影を落とす。


「論告します」


「被告は追放された被害者を自称しました。——事実は逆です」


 ユストゥスは机上の書類へ一瞥もくれない。両腕を体の側面に自然に下ろしたまま言葉を紡ぐ。


「指導記録は七回。事前通告あり。猶予期間あり。除名はパーティー編成権に基づく正当な措置でした。追放は不当ではありません」


「被告は除名後、在籍中の融通を遡及的に貸付と主張しました。しかし合意書はない。相手方の署名はない。利率の説明もない。帳簿は被告が単独で作成したものです。貸借合意は存在しません。架空債権です」


 傍聴席の最前列で、車椅子のブリギッテがわずかに身を縮める。隣に立つオットーの手が、彼女の肩を覆う毛布の端を固く握りしめた。


「被告は自動回収機能で三名から生命力を強制回収し続け、二十四歳の女性を歩行不能にしました。——被告が追放されてから自動回収を開始するまでの間、被告が被害者であった期間は何日あるでしょうか」


 ユストゥスの声が、ふつりと途絶える。


 沈黙が法廷の隅々までを満たす。ファイトの顔から、傲慢な薄ら笑いが完全に消え去っている。


「〇日です。——除名されたその日に帳簿を根拠に回収を始めています。被害者であった瞬間が、存在しない。被害者を自称して加害した。検察は全罪状について有罪を求めます」


 一切の余韻を残さず、ユストゥスは検察官席に腰を下ろした。法服の襟元が微かに揺れ、そして静止する。


◇◇◇


 ファイトの顔が変わる。


 パイプ椅子の背もたれに預けていた背中が跳ね上がった。額の皮膚の下で血管が脈打ち、薄い唇が不規則に引きつる。机の縁を掴む両手の爪先が白く変色している。


「……ふざけるなよ。俺のスキルだ。俺の生命力だ。俺が誰にどう貸そうが——」


 ルイーゼが顔を上げ、正面の被告を見据えた。


「被告。判決の前に——」


「黙れ」


 傍聴席の最前列で、オットーがブリギッテを庇うように半歩前に出た。ハルトマンは伏せていた顔を上げ、隣の被告へ視線を向ける。ファイトは机の上に両手をつき、前傾姿勢のままルイーゼをねめつけた。


「お前もだ、裁判官。——お前にも貸し付けてやろうか。強制的に。今すぐ。お前の体に俺の生命力を流し込んで、利息つけて——お前もブリギッテみたいにしてやる」


 沈黙。


 ルイーゼの表情が消える。元コントラクト。「強制的に」。体が知っている言葉だ。


 だが手は震えない。


 ルイーゼが口を開く前に、ユストゥスが立った。


「裁判長。罪状の追加を求刑します」


「被告は今、法廷において裁判官に対し、スキルによる強制的な生命力の注入と回収を示唆しました。以下を現行犯で求刑します」


 ユストゥスは両腕を体の側面に下ろしたまま、罪状を並べていく。


「法廷侮辱。法廷の秩序を著しく乱す言動」


「公務執行妨害。裁判官の職務に対する妨害の意図」


「不正司法介入。スキルの行使をもって裁判官の判断に干渉しようとする行為」


「脅迫。裁判官の身体に対する害悪の告知」


 ルイーゼが書記官に目を向ける。


「……書記官。今の発言を記録してください」


「記録しました」


 上擦った声が即座に返る。


「検察の求刑を認容します。法廷侮辱は現行犯です。本法廷の権限で即時に付加罰を科します。——ただし、法廷内犯罪の即日審理には弁護人の同意が必要です」


 ルイーゼの視線が、傍聴席の最後列に向かう。


「ハルトマン氏。即日審理について——」


「私はすでに解任されています」


 淡々とした声が傍聴席から返る。


 法廷が静まる。弁護人がいない。被告が自分でクビにした。


「……弁護人不在の場合、同意手続きは省略されます。——被告が自ら招いた結果です」


「おい——待て——俺はただ——」


 ファイトの声が上擦る。机を掴む手が離れ、空中で意味もなく彷徨った。


「"ただ"何ですか。——あなたは今、二十四歳の女性を歩けなくしたのと同じことを、この法廷で裁判官に対してやると宣言しました。被害者の前で。——それが"ただ"ですか」


「…………」


 ファイトの唇が何度か開閉するが、音は出ない。


 ルイーゼは卓上の木槌を取り、台座を一度打つ。


「判決に移ります」


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