第69話:被害者であった期間
「被害の実態を立証します。証人ブリギッテ氏を呼びます」
傍聴席の最前列から、鈍い摩擦音が立ち上がる。重たい金属の車輪が、床板を軋ませる。オットーが、ゆっくりと車椅子を押して通路を進み出た。
法廷内の視線が一斉に一点へ注がれる。シャンデリアの冷たい光が、座面に沈み込む小さな体を照らし出した。
頭部を覆うのは、光沢を失った白髪。顔の皮膚は薄く透け、眼窩が深く窪んでいる。膝下まで覆う灰色の毛布の端から、細い腕が力なく垂れ下がっていた。関節の骨だけが不自然に隆起する手首。冬を越えられなかった枯れ枝のような指先が、わずかに震える。
傍聴席から、衣服の擦れる音さえも消え失せる。
ルイーゼは手元の調書から顔を上げる。ペン先を浮かせ、指先を微かに固くした。長い睫毛がゆっくりと下り、一瞬だけ両目が閉じられる。
「証人ブリギッテ。現在の体調を教えてください」
裁判長の声は、どこまでも平坦だ。車椅子の上で、白い唇が微かに震える。
「……生命力が、ほとんどありません。回復しても……回復した分だけ、吸われるんです。毎日。寝ても、食べても。朝起きると……昨日より、体が重い」
言葉の合間に、浅い呼吸が何度も混じる。骨と皮だけになった指先が、膝の上の毛布を弱々しく掴む。
「歩行は」
「……二ヶ月前から、立てません」
「年齢は」
「……二十四歳です」
傍聴席の奥で、誰かが口元を押さえる気配がした。
証言台の脇に留まっていたカスパルが、太い首を前へ突き出す。
「一度も説明を受けていません。あいつはサポート役です。生命力を分けるのが仕事だと思っていた」
被告人席のファイトは、腕を組んだままつまらなそうに鼻を鳴らす。
ブリギッテの細い首が、わずかに傾く。視線が、ファイトの足元あたりに力なく落ちた。
「……仲間だと……思っていました」
オットーが、車椅子のグリップを握り直す。背筋を伸ばして正面を見据えた。
「……俺はまだ動けます。ブリギッテほどじゃない。でもスキルは使えなくなった。今は……ブリギッテの世話をしています」
オットーの顎の筋肉が、固く引き結ばれる。静まり返った法廷に、ブリギッテの微かな呼気だけが白く濁って漂う。
◇◇◇
ルイーゼが被告人席へ顔を向ける。
「被告。検察の立証に対し、弁明がありますか」
ハルトマンが羽根ペンを置き、立ち上がろうとした。
「弁護側から——」
「俺が話す」
ファイトが身を乗り出し、右手を荒々しく突き出す。
「被告。弁護人として申し上げます。ここは私に——」
「お前はクビだ。俺の弁護を俺より下手な奴にやらせる意味がない」
振り返りもせず、吐き捨てるように言い放つ。ハルトマンの肩がこわばった。
「……被告。国選弁護人の解任は裁判長の許可が——」
ルイーゼの声が割って入る。
「弁護人。被告が弁護を拒否しています。——解任を受け入れますか」
ハルトマンは深く息を吸い込む。広い肩を一度落とし、散らばった書類を拾い集めた。赤いインクで修正線が引かれた白い紙片を、一枚ずつ丁寧に揃える。
「……受け入れます。——ただし被告が弁護人の助言を拒否して自ら解任を求めたことを、記録に残してください」
「記録します。——弁護人ハルトマンの解任を認めます。被告、以後は本人弁護となります」
ハルトマンは書類の束を鞄に収め、弁護人席を立つ。傍聴席の最後列に腰を下ろした。
「生命力を受け取って消費した時点で契約成立だ。嫌なら受け取らなければよかった」
「あいつらは俺を捨てた。報いを受けているだけだ。追放した側が悪いに決まってる」
「追放された英雄はな、力を取り戻して、捨てた奴らに報いを与えるんだ。どの物語でもそうだろ。俺はそれをやっただけだ」
身振りを交えながら捲し立てる声には、異様な熱がこもる。ファイトは両腕を大げさに広げた。
検察官席から衣擦れの音が立ち上がる。ユストゥスが、完璧な姿勢のまま立ち上がっていた。
「反対尋問をします。被告。ここは物語ではありません。法廷です。——確認します。あなたの言う『朝貸し』の契約書はありますか」
ファイトの腕が空中で止まる。
「……帳簿がある」
「帳簿はあなただけが書いたものです。相手方の署名はありますか」
ユストゥスは手元のバインダーを一瞥すらしない。視線を被告の顔に固定したまま、問いを重ねていく。
「……ない」
「利率の説明を相手方にしましたか」
「する必要はない。俺のスキルだ」
「つまり。合意なし。署名なし。利率の説明なし。——被告、それは貸付ではありません。あなたが一人で書いた帳簿に基づく一方的な請求です」
「利率は俺が決めた。俺のスキルだ。法律じゃない。俺のスキルだ」
パイプ椅子の背もたれを叩き、ファイトが怒鳴る。ユストゥスは微かに顎を引き、書類に視線を落とした。
「……検察からは以上です」
ユストゥスが検察官席へ腰を下ろす。
ルイーゼの視線が弁護人席へ向かう。空席だ。
「……被告。何か補足はありますか」
ファイトは口を開きかけ、閉じた。




