第68話:黙ってろ
傍聴席の最前列。通路にせり出すように、一台の車椅子が停まっている。
車輪の太い金属スポークが、焦げ茶色の床板に鈍い影を落とす。座面に身を沈める女の髪には、不規則な白糸。窓から差し込む斜光が、微かに傾いた頭部を縁取るように照らしている。本来であれば二十代半ばであるはずの輪郭に、生命の瑞々しさはない。隣に座る大柄な男が身を乗り出し、女の膝に掛けられた灰色の毛布の端を無言で直した。骨と皮だけになった女の指先が、毛布の縁を力なく握りしめる。
高い天井から吊るされた真鍮のシャンデリアが、王都中央裁判所刑事法廷の垂直なオーク材の壁面を均等に照らし出す。正面の両開き扉が、重々しい軋み音を立てて開いた。
硬い革靴の足音が天井に反響する。黒い法服を纏ったルイーゼが、中央の裁判長席へと歩みを進める。続くようにして、陪席裁判官のディートリッヒ・ケスラーが右側の椅子を引き、深く腰を下ろした。手元の資料を揃える乾いた紙の音が、張り詰めた空気を微かに揺らす。
ルイーゼは卓上の木槌を右手に取り、台座を一度だけ打つ。高く澄んだ音が、室内の隅々まで行き渡った。
「王都中央裁判所刑事法廷を開廷します。——被告ファイト。罪状、架空債権の請求、暴利行為、重傷害、殺人未遂、脅迫、自力救済の禁止違反、不当利得」
ルイーゼが手元の名簿に目を落とし、各席を確認する。視線が検察官席に移った瞬間、わずかに眉が動く。
「……その前に。弁護人の席はそちらではありません」
検察官席に座っている若い男が、手元のバインダーから顔を上げた。
「残念ながら、それは兄の方です。——王国刑事検察官、ユストゥス・レンツ。双子の弟です。本件に関係はありません」
ルイーゼの眉が元に戻る。
「……失礼しました。——弁護人は」
被告人席の隣から、長身の男がゆっくりと立ち上がる。くたびれた上着の肩幅は広い。手元の羽根ペンを弄る無骨な指先には、黒いインクの染みがこびりついている。
「国選弁護人ハルトマンです」
ハルトマンの視線が検察官席の若い男に向かう。見覚えのある輪郭だ。
◇◇◇
ユストゥスが手元のバインダーに触れる。細く長い指先が、留め具の金属を音も立てずに外す。書類の束から視線を上げることなく、薄い唇が正確な発音で言葉を紡ぎ出す。
「被告ファイトは、冒険者パーティー『七星』に八ヶ月間在籍し、サポート役として仲間に生命力を融通していました。除名後、在籍中の融通を遡及的に貸付と主張し、日利一〇パーセントの複利を適用した債務を請求。自動回収機能で被害者三名から生命力を強制回収し続けています」
ユストゥスは一枚の書類をつまみ上げ、裁判長席へ向けて掲げた。
「証拠の第一。被告が作成した帳簿です。記録の開始日はパーティー加入初日。一日も欠かさず融通量を記録しています」
乾いた紙の音が響く。ユストゥスは書類を卓上に戻し、次のページをめくる。弁護人席のハルトマンが、口元を片手で覆いながら眉間を狭めた。対照的に、被告人席のファイトはパイプ椅子の背もたれに体を預けている。右手の人差し指で木製の机を等間隔に叩く。トントン、という微小な音が検察官の声に被さる。
「第二。パーティーリーダー・カスパル氏の指導記録。被告は在籍中に七回の指導を受けています。証人を呼びます」
傍聴席から、屈強な体格の男が通路へ歩み出た。借り物らしい仕立ての良い上着を窮屈そうに着込んでいる。証言台の前に立つと、太い首を一度だけ左右に傾けた。カスパルの大きな手が、証言台の木製手すりを深く握りしめる。
「第一回。戦闘中に独断で生命力の配分を変更。本人の回答:『俺の判断の方が効率いい』」
カスパルの声は太く、地鳴りのように響く。手元の擦り切れた手帳に目を落としながら、過去の記録を一つずつ読み上げていく。
「第三回。収益分配への異議。本人の回答:『俺のルールの方が正しい』」
「第五回。作戦会議で全員の決定を無視。本人の回答:『お前らの判断は甘い』」
分厚い胸板が大きく上下する。カスパルは裁判長へ真っ直ぐに顔を向けた。手すりを握る指の力がさらに強まる。
「第七回。クエスト中に指示を無視し単独行動。パーティーが危険にさらされた。この時点で除名を決定しました。三人の合意。事前通告し、一週間の猶予を与えています」
ユストゥスがバインダーから最後の書類を抜き出す。
「第三。被告のスキル『活力融通』の正式な説明文。機能は"融通"と"回収"の二つ。利息の機能はスキルに存在しません」
書類を卓上に置く音が、法廷の底に落ちる。ファイトの指先が机を叩く音が、ぴたりと止まった。
◇◇◇
ハルトマンが立ち上がる。くたびれた上着のボタンを一つ留め、卓上の書類へ視線を落とした。赤いインクで無数の修正線が引かれている。大きく息を吸い込む。
「弁護側の主張を述べます。被告がパーティー在籍中に生命力を融通したのは事実ですが、これはサポート役としての——」
「弁護士、黙ってろ」
被告人席から飛んだ低い声。ハルトマンの次の言葉が不自然に突っかかる。
「被告、私に——」
「お前の言い方じゃ伝わらない。俺が説明する」
パイプ椅子の金属脚が床を削る音が響き渡った。ファイトが身を乗り出す。傍聴席から私語が広がる。ルイーゼが弁護人を見た。ハルトマンは薄く開いた口を一度閉じ、力なく首を振る。
「俺は被害者だ。パーティーを不当に追放された。追放された側が主人公だろ。追放した奴らが間違ってるに決まってる。俺のスキルがなければあいつらは何もできなかった」
「あの生命力は朝貸しだった。朝貸して、利息つけて返してもらう約束だった。帳簿にも書いてある」
ハルトマンの手から数枚の書類が滑り落ちる。弁護人は身を乗り出し、被告の肩へ手を伸ばした。
「被告。帳簿は被告だけが——」
「引っ込んでろって言った。俺のスキルだ。俺のスキルの生命力を、俺のルールで管理して何が悪い」
伸ばされた手を、ファイトが苛立たしげに払いのける。ハルトマンは打たれた右手を庇うように引き戻し、そのまま言葉を飲み込んだ。ゆっくりと椅子に腰を下ろす。散らばった書類を拾い集めることすらしない。
弁護人が組み立てようとしていた防御線を、被告自身が壊した。「サポート役としての通常業務だった」で争えば減刑の余地があった。ファイトが「朝貸しだった」「俺のルールだ」と言った瞬間、貸付の意図を自分で認めている。
ルイーゼの声が静寂に落ちる。
「弁護人。被告の発言を追認しますか」
ハルトマンは顔を上げない。床に落ちた白い紙片を見つめている。深い溜息が漏れた。
「……追認しません。しかし被告が自ら主張している以上、弁護人として制止する手段が——」
「了解しました。被告の自発的主張として記録します」
書記官の羽根ペンが、規則正しいリズムで羊皮紙を叩き始める。




