第58話:最悪です
前編の判決から数日が経過した。王都中央裁判所の受付カウンターのど真ん中に、茶褐色のふかふかした塊が陣取っている。
「困ります、お客様。ここはペットを連れ込む場所ではありません」
受付職員が冷や汗を流しながら説得を試みる。
「ペットじゃない」
「えっ、喋った……?」
「僕を物扱いするのやめて。裁判で決めて」
魔獣は平然と言い放つと、職員の手元にある書類の束へと移動した。書類の山の上に器用に丸まる。
騒ぎを聞きつけた上司が奥から駆け寄ってきた。魔獣の下にある書類を確認して顔を青くする。
「それ今日の訴状です」
「あったかい」
◇◇◇
拾い主が転がるように裁判所の受付へ駆け込んできた。髪は乱れ、目の下には深い隈がある。
「ほら、帰ろう。ごはんあるよ」
「やだ」
拾い主がおやつを出す。魔獣が食べる。食べた上で——
「やだ」
「食べたのに!?」
「ごはんと帰るのは別」
拾い主の中で、何かが音を立てて切れた。
「もういい! こいつは物だ! 物だって証明してやる!——この魔獣に法的権利が存在しないことの確認を求めます。被告はこいつです」
受付職員が唖然とする。
「……被告……魔獣……?」
「魔獣です。法的に物であることを確認してください。そうすれば強制的に連れて帰れます」
「……弁護人はつけますか?」
「いりません。簡単な話ですから。こいつは物です。法律にそう書いてあります。確認するだけです」
◇◇◇
魔獣モスハウンドは、被告席の上で首を忙しなく左右に振る。法廷内をキョロキョロと見渡すその仕草には、緊張感など微塵もない。
「あの裁判官さんは?」
脇に控えていた書記官が無表情に答える。
「前回の裁判官は利益相反で担当できません」
「利益相反って何」
「あなたが原因です」
傍聴席から微かな忍び笑いが漏れる。
今回の主席裁判官、エーベルハルトが入廷してきた。地味で実直そうな瞳を一度だけ被告席に向け、深い溜息を吐き出す。着席すると、原告席に座る拾い主を凝視した。
「原告。弁護人は」
「いません。自分でやります。——あんな奴に権利があるわけないんです。法廷で言えば済む話です」
「……弁護人をつけることを強く推奨しますが」
「いりません。簡単な話ですから」
エーベルハルトは手元の王国訴訟法に目を落とす。あるページでその視線が止まり、僅かに眉間に皺を寄せる。
「……本人訴訟を認めます。——ただし、訴訟法の規定は全て適用されます。よろしいですね」
「当然です」
「……よろしいですね。」
「はい」
「…………」
「……では、原告。訴状の読み上げを」
拾い主が震える手で訴状を掲げる。
「本魔獣には法的権利が存在しないことの確認を求めます。魔獣は法律上"物"であり、所有権の対象です。被告——えー、この魔獣に、法的主体性は——」
「原告。確認します」
エーベルハルトが遮る。
「本訴訟の被告は、この魔獣ですね」
「はい」
「魔獣を被告として訴訟を提起した。——これを確認します」
「はい。だから物だと——」
「書記官。王国訴訟法第42条を読み上げてください」
書記官が立ち上がり、法典を開く。
「王国訴訟法第42条。法的主体を持たない者を訴訟の当事者とした場合、双方の合意とみなし、訴訟手続き中は法的主体性を追認したものとみなす。」
条文が石造りの法廷に冷たく反響する。
「原告。あなたは今、法的主体を持たないと主張する存在を——被告にしました。王国訴訟法第42条により、被告に法的主体性が追認されます。一時措置として」
「……え? ちょっと待って——」
「待ちません。あなたが訴状を提出し、被告を魔獣と指定した時点で、条項は自動的に適用されます。——弁護人をつけることを推奨しましたが、お断りになりましたね」
「…………」
「続けます。——王国訴訟法第42条の確定要件を確認します」
「同条は、一時措置を永久確定するための要件を定めています。"自由意志を発言できる意思体"であることが認められる場合、法的主体性を確定する。」
「本魔獣は、自ら裁判所に赴き、"僕を物扱いするな"と訴訟手続きを申し出ています。——訴訟を申し立てる意思を持つ存在は、"自由意志を発言できる意思体"の要件を満たします」
「ちょ——それは——あいつが勝手に——」
「勝手に来たのです。自分の意思で。——それが自由意志です」
「さらに同条後段。"所有権等の契約の帰属を加味する"。」
「本魔獣と原告の間に契約は存在しますか」
「契約……? ペットに契約なんか——」
「ありませんね。奴隷契約もない。雇用契約もない。合意に基づく飼育契約もない。登録証は原告が一方的に登録したものであり、本魔獣の合意を経ていません」
「王国訴訟法第42条の趣旨は、奴隷のように契約で拘束された意思体の法的地位を訴訟中に保護することにあります。——奴隷には奴隷契約がある。だから主体性が認められても、契約の範囲で拘束される」
「本魔獣には契約がない。意思体であり、契約による拘束がない。——契約なき意思体に対する所有権は成立しません」
「…………」
「整理します」
「被告は自由意志を発言できる意思体である。——確定」
「被告と原告の間に契約は存在しない。——確定」
「契約なき意思体に対する所有権は成立しない。——確定」
「よって。原告の請求を棄却します。所有権は存在しない。本魔獣の法的権利は存在する。」
「…………嘘でしょ」
「嘘ではありません。——あなたが起こした訴訟です」
「じゃあ僕は自由?」
被告席でモスハウンドが首を傾げる。
「法的にはそうです」
「じゃあ裁判官さんのところに——」
エーベルハルトは、この「元被告」が自分に懐くのかと一瞬身構える。
「自由というのは、好きな場所に行けるということです。私の家に行く義務はありません」
「あなたじゃない。あっちの裁判官さん」
エーベルハルト「…………」
ルイーゼが傍聴席から出てくる。後編を見に来ていた。
魔獣がルイーゼを見つけた瞬間、弾丸のような速度で壇上を駆け下り、彼女の足元まで突進する。膝に飛び乗り、首に抱きつく。
「裁判官さん!!」
「私はもう担当じゃありません。降りなさい」
「担当じゃなくても好き」
ルイーゼは天を仰ぐ。
エーベルハルト「……前任。引き取りますか」
ルイーゼ「引き取りません。……法的には誰のものでもないんでしょう?」
エーベルハルト「そうです」
ルイーゼ「じゃあ私にもどうしようもありません」
「ごはんは?」
「自分で獲りなさい。あなたは自由な法的主体です」
「……虫でいい?」
「……虫を法廷で食べないでください」
◇◇◇
夕方。ルイーゼの自宅。
仕事を終え、疲れ果てた足取りで玄関前に辿り着く。鍵を取り出そうと鞄を探っていると、足元に茶褐色の毛玉が鎮座していた。
「玄関ってここ?」
「……なぜここがわかったんですか」
「匂い」
ルイーゼは深い溜息を吐く。
「……窓じゃなくて玄関に来たのは偉いですね」
「前に窓って言ったら怒られたから」
長い沈黙。ルイーゼは鍵を開け、扉を押し広げた。
「……入りなさい」
魔獣はルイーゼの脇をすり抜けて室内へと滑り込む。期待に満ちた目で彼女を見上げる。
「ごはんは?」
「あなたは自由な法的主体です。自分で獲りなさい」
「……虫でいい?」
「虫を家の中で食べないでください。……はぁ。何か作ります」
魔獣がルイーゼの足元にまとわりつく。尻尾を振っている。
「……自由意志でここに来たんですね」
「うん」
「……最悪です」
「ごはん」
「……はいはい」




