第57話:どっちの飼い主でしょう?
王都中央裁判所の正面玄関前。朝の光に照らされた石造りの大階段を舞台に、二人の男女が激しく火花を散らしている。
「返してください! うちの子です!」
「いいえ! もううちの子です!」
二人の間には、一匹の奇妙な生き物がいた。
魔獣モスハウンド。茶褐色のふさふさとした毛に覆われた丸い体。短い四肢でちょこまかと動き回り、その風貌は犬のようでもあり、大きな猫のようでもある。モスハウンドは、主たちの深刻な争いなどどこ吹く風だ。
彼は今、朝露に濡れた石段を這う一匹の黄金虫に夢中だった。虫が羽を震わせれば首を傾げ、短い尻尾を回す。飼い主候補たちが必死に名前を呼んでも、魔獣の視界にあるのは虫の軌跡だけである。
黄金虫が裁判所の重厚な扉の隙間へと逃げ込んだ。
モスハウンドは瞳を輝かせ、その後を追う。
「あ!」
「待て!」
二人の男女も慌ててその後に続いた。
◇◇◇
裁判官席に腰を下ろしたルイーゼは、卓上の書類を指先で整える。今日の案件は、魔獣の所有権を巡る民事訴訟だ。王都中央裁判所の法廷は、いつになく弛緩した空気が漂っている。
ルイーゼが深呼吸をし、開廷の宣言をしようとした、その時。
法卓の下から軽快な足音が聞こえてきた。ルイーゼが視線を落とす間もなく、茶色の影が視界を横切る。
モスハウンドは驚くべき跳躍力を見せた。一段飛ばしで裁判官席の壇上を駆け上がり、ルイーゼの膝の上へと着地する。膝の上には温かくて重みのある、驚くほどふかふかした塊が鎮座していた。
モスハウンドは膝の上で満足げに一回転すると、さらにルイーゼの腹部を足場にして上へと這い上がってくる。ルイーゼの手が魔獣を制止しようと伸びるが、モスハウンドはその手を巧みにすり抜け、肩を乗り越え、首元へと顔を埋めた。
首筋に、魔獣の温かい鼻先の感触が触れる。喉の奥からくぐもった振動が伝わってきた。
「ここ、あったかい」
ルイーゼの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。
「……証拠物件が裁判官席に侵入しています。退けてください」
慌てて書記官が駆け寄る。モスハウンドの脇腹を掴み、ルイーゼから引き剥がそうとした。その瞬間、魔獣はルイーゼの首筋にさらに強く抱きつき、短い前足で法衣をぎゅっと掴む。
「にゃー」
甘えるような声を上げるモスハウンド。
書記官が困り果てたように手を止めた。
「あの……離れません……」
「力ずくで退けてください」
ルイーゼは毅然と言い放つが、頬の赤みは増す一方だ。
モスハウンドは抵抗するように、ルイーゼの頬に自分の顔を擦り付ける。ルイーゼは深い溜息をつき、諦めたように目を閉じた。居住まいを正し、膝の上に無理やり魔獣を降ろして、その背中を片手で押さえる。
「……審理を開始します。——証拠物件は私の膝の上にいますが、気にしないでください」
傍聴席からこらえきれない笑い声が漏れた。
「笑わないでください」
ルイーゼは鋭く釘を刺すが、膝の上ではモスハウンドが彼女の指を甘噛みしている。法廷の厳粛さは、開廷一分足らずで崩壊していた。
ルイーゼは平静を装い、正面を向く。
「では、原告、被告。それぞれの主張を」
まず、元の飼い主が目に涙を溜めながら身を乗り出す。
「この子は私が幼体から育てました。登録証もあります。所有権は私にあります」
対する拾い主も譲らない。
「この子は街の外で衰弱していました。私が保護して、治療して、数ヶ月間一緒に暮らしました。もううちの子です」
ルイーゼは膝の上の魔獣を片手でなだめながら、冷静に争点を整理する。
「……遺棄されていたのか、脱走したのかが争点ですね。——証拠は」
二人はほぼ同時に、懐から小さな包みを取り出した。
元の飼い主が包みを広げて高く掲げる。
「うちの子はこれが好きなんです!」
丁寧に乾燥された干し肉だ。
負けじと拾い主も包みを広げる。
「いいえ! こっちが好きです!」
香ばしい匂いを放つ燻製魚。
法廷内に強烈な匂いが充満する。ルイーゼは眉をひそめた。
「法廷に食べ物を持ち込まないで——」
彼女の言葉が終わるより早く、膝の上の魔獣が反応した。モスハウンドは鼻をひくひくと動かし、ルイーゼの膝から軽やかに飛び降りる。
彼はまず、拾い主の掲げる燻製魚の方へと迷わず突進した。
拾い主の手から燻製魚を奪い取るようにして食べ始める。拾い主が勝ち誇ったように胸を張った。
「ほら見てください! うちのごはんの方が好きなんです!」
元の飼い主はショックに顔を青ざめる。
「先にそっちを……」
「食べ物の好みは所有権の根拠になりません。——証拠物件は食事をやめてください」
ルイーゼの声は冷ややかだ。
だが、モスハウンドに止まる気配はない。燻製魚を瞬く間に平らげると、すぐさま向きを変え、元の飼い主が持つ干し肉にも飛びついた。
両方の「証拠」を綺麗に食べ終えたモスハウンドは、満足げに口の周りを舐め、当然のような顔でルイーゼの膝の上へと帰還する。
元の飼い主が最後の手段とばかりに叫ぶ。
「名前を呼んでみてください! うちの子はこの名前で来ます!」
拾い主も負けていない。
「いいえ! こっちの名前です!」
二人が同時に名前を呼んだ。
魔獣は耳を動かした。
そして——ルイーゼの方を向く。
「「そっちじゃない!!」」
ルイーゼは、自分を真っ直ぐに見つめてくる魔獣の視線に辟易しながら、ぴしゃりと言い放つ。
「こちらでもありません」
所有権争いが白熱する。「遺棄だ」「いや脱走だ」「うちの子だ」「いやうちの子だ」。
魔獣はルイーゼの膝の上であくびをしている。眠そうだ。
「うるさいなあ」
不意に、子供のような高い声が法廷に響く。
罵り合っていた両当事者が、石像のように固まった。ルイーゼの手も、魔獣の背中で止まる。誰が喋ったのか、犯人を探すように視線が交錯する。しかし、法廷には関係者以外の子供などいない。
「僕は自分で出ていったんだよ」
声の主は、ルイーゼの膝の上で丸まっていたモスハウンドだった。彼は首をもたげ、大きな瞳で交互に二人の飼い主候補を見つめる。法廷が凍りつく。
ルイーゼは、頬を痙攣させながら、膝の上の毛玉を凝視する。
「…………」
「…………証拠物件が証言しました。——前例がありません」
「嘘! この子が喋るなんて——」
元の飼い主が絶叫する。
「私も知りませんでした——」
拾い主も腰を抜かしたように座り込んだ。
モスハウンドは面倒くさそうに尻尾をルイーゼの膝に叩きつけた。
「前から喋れたよ。喋ると面倒だから黙ってた。……でもうるさいから喋った」
「……いつから喋れるのですか」
「生まれたときから」
「……なぜ今まで黙っていたのですか」
モスハウンドは少しだけ嫌そうな顔をして鼻を鳴らす。
「喋ると"すごい! もう一回!"って言われるから。面倒」
ルイーゼは天を仰いだ。彼女は法衣の袖で口元を隠し、誰にも聞こえないような小声で漏らす。
(小声で)「気持ちはわかります」
ルイーゼは急速に顔を引き締め、姿勢を正す。
「では……証言を聞きます。なぜ元の飼い主の家を出たのですか」
「嫌だったから」
元の飼い主が悲鳴に近い声を上げた。
「えっ……」
「ごはん不味い。部屋狭い。散歩ない。……鳥追いかけたかったけど、窓開けてくれない」
「だ、だって危ないから……! 外には野良の魔獣もいるし、馬車に轢かれたらどうするんだ! 小さい体で一人じゃ生きていけないだろう! 閉じ込めたんじゃない、守ったんだ!」
元の飼い主は必死に食い下がる。不器用だが、純粋な愛情がこもっている。
魔獣は冷めた目で彼女を見上げた。
「僕が魔獣だよ」
ルイーゼは息を呑む。
「拾い主に保護された後、元の家に帰ろうとは思いませんでしたか」
「思わなかった。こっちの方がごはん美味しいし。窓大きいし。鳥見える」
「……拾い主のことは好きですか」
「好き。ごはん美味しいし」
「ごはん基準ですか」
「ごはんは大事だよ」
「……では、拾い主のところに戻りたいですか」
「……んー」
「?」
魔獣はゆっくりと顔を上げた。じっとルイーゼの瞳を見つめる。
「裁判官さんのおうちに行きたい」
「は?」
「いい匂い。あったかい。膝が一番いい。裁判官さんがいい」
モスハウンドは当然の権利であるかのように、ルイーゼの腕の中に潜り込もうとする。
「却下です」
「なんで」
「私は当事者ではありません!」
「当事者になって」
「なりません!——法廷で裁判官に引き取りを要求した魔獣は前例がありません!!」
ルイーゼは膝の上に魔獣を乗せたまま、判決を述べ始める。
「この魔獣が"物"であるなら、所有権の問題です。元の飼い主に返還すべきです」
元の飼い主が期待に満ちた表情で身を乗り出す。しかし、ルイーゼの言葉はそこで終わらない。
「しかしこの魔獣は喋りました。自分の意思で家を出たと。元の飼い主が嫌だと。——"物"は喋りません。"物"は嫌がりません」
「本法廷は魔獣の法的地位について判断する権限を持ちません。——だが目の前で"嫌だ"と言っている存在を、嫌がる場所に戻すことは、常識に反します」
「よって。所有権を拾い主に移転します。元の飼い主には拾い主から養育費相当額の賠償金を支払います」
元の飼い主が震える声を絞り出す。
「そんな……私は……あの子のために……」
「元の飼い主。あなたの愛情は疑いません。——だが愛情があっても、相手が"嫌だ"と言っているなら、それは尊重されなければなりません」
モスハウンドが上目遣いでルイーゼを見上げた。
「裁判官さんのところは?」
ルイーゼ「…………」
「本件の判決は以上です。証拠物件は——拾い主と一緒に退廷してください」
魔獣がルイーゼの膝から降りない。
「……退廷してください」
「やだ」
「退廷命令です」
魔獣はようやく名残惜しそうに膝から降りる。出口へ向かう途中で一度だけ立ち止まり、ルイーゼを振り返った。
「……じゃあ、またね」
「二度と来ないでください。」
◇◇◇
翌日。ルイーゼの自宅。朝。
窓を開けたら、魔獣が窓枠に座っていた。
「おはよう」
ルイーゼ「…………」
「……なぜここがわかった」
「匂い」
ルイーゼが頭を抱える。法的には拾い主の所有物。だが魔獣は自分で来た。




