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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-514号 ペットの居場所 所有権返還請求事件
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第57話:どっちの飼い主でしょう?

 王都中央裁判所の正面玄関前。朝の光に照らされた石造りの大階段を舞台に、二人の男女が激しく火花を散らしている。


「返してください! うちの子です!」

「いいえ! もううちの子です!」


二人の間には、一匹の奇妙な生き物がいた。

魔獣モスハウンド。茶褐色のふさふさとした毛に覆われた丸い体。短い四肢でちょこまかと動き回り、その風貌は犬のようでもあり、大きな猫のようでもある。モスハウンドは、主たちの深刻な争いなどどこ吹く風だ。

彼は今、朝露に濡れた石段を這う一匹の黄金虫に夢中だった。虫が羽を震わせれば首を傾げ、短い尻尾を回す。飼い主候補たちが必死に名前を呼んでも、魔獣の視界にあるのは虫の軌跡だけである。


黄金虫が裁判所の重厚な扉の隙間へと逃げ込んだ。

モスハウンドは瞳を輝かせ、その後を追う。

「あ!」

「待て!」

二人の男女も慌ててその後に続いた。


◇◇◇


裁判官席に腰を下ろしたルイーゼは、卓上の書類を指先で整える。今日の案件は、魔獣の所有権を巡る民事訴訟だ。王都中央裁判所の法廷は、いつになく弛緩した空気が漂っている。


ルイーゼが深呼吸をし、開廷の宣言をしようとした、その時。

法卓の下から軽快な足音が聞こえてきた。ルイーゼが視線を落とす間もなく、茶色の影が視界を横切る。


モスハウンドは驚くべき跳躍力を見せた。一段飛ばしで裁判官席の壇上を駆け上がり、ルイーゼの膝の上へと着地する。膝の上には温かくて重みのある、驚くほどふかふかした塊が鎮座していた。


モスハウンドは膝の上で満足げに一回転すると、さらにルイーゼの腹部を足場にして上へと這い上がってくる。ルイーゼの手が魔獣を制止しようと伸びるが、モスハウンドはその手を巧みにすり抜け、肩を乗り越え、首元へと顔を埋めた。


首筋に、魔獣の温かい鼻先の感触が触れる。喉の奥からくぐもった振動が伝わってきた。

「ここ、あったかい」


ルイーゼの顔が、みるみるうちに赤く染まっていく。

「……証拠物件が裁判官席に侵入しています。退けてください」


慌てて書記官が駆け寄る。モスハウンドの脇腹を掴み、ルイーゼから引き剥がそうとした。その瞬間、魔獣はルイーゼの首筋にさらに強く抱きつき、短い前足で法衣をぎゅっと掴む。

「にゃー」

甘えるような声を上げるモスハウンド。


書記官が困り果てたように手を止めた。

「あの……離れません……」


「力ずくで退けてください」

ルイーゼは毅然と言い放つが、頬の赤みは増す一方だ。


モスハウンドは抵抗するように、ルイーゼの頬に自分の顔を擦り付ける。ルイーゼは深い溜息をつき、諦めたように目を閉じた。居住まいを正し、膝の上に無理やり魔獣を降ろして、その背中を片手で押さえる。


「……審理を開始します。——証拠物件は私の膝の上にいますが、気にしないでください」


傍聴席からこらえきれない笑い声が漏れた。


「笑わないでください」


ルイーゼは鋭く釘を刺すが、膝の上ではモスハウンドが彼女の指を甘噛みしている。法廷の厳粛さは、開廷一分足らずで崩壊していた。


ルイーゼは平静を装い、正面を向く。

「では、原告、被告。それぞれの主張を」


まず、元の飼い主が目に涙を溜めながら身を乗り出す。

「この子は私が幼体から育てました。登録証もあります。所有権は私にあります」


対する拾い主も譲らない。

「この子は街の外で衰弱していました。私が保護して、治療して、数ヶ月間一緒に暮らしました。もううちの子です」


ルイーゼは膝の上の魔獣を片手でなだめながら、冷静に争点を整理する。

「……遺棄されていたのか、脱走したのかが争点ですね。——証拠は」


二人はほぼ同時に、懐から小さな包みを取り出した。


元の飼い主が包みを広げて高く掲げる。

「うちの子はこれが好きなんです!」

丁寧に乾燥された干し肉だ。


負けじと拾い主も包みを広げる。

「いいえ! こっちが好きです!」

香ばしい匂いを放つ燻製魚。


法廷内に強烈な匂いが充満する。ルイーゼは眉をひそめた。

「法廷に食べ物を持ち込まないで——」


彼女の言葉が終わるより早く、膝の上の魔獣が反応した。モスハウンドは鼻をひくひくと動かし、ルイーゼの膝から軽やかに飛び降りる。

彼はまず、拾い主の掲げる燻製魚の方へと迷わず突進した。


拾い主の手から燻製魚を奪い取るようにして食べ始める。拾い主が勝ち誇ったように胸を張った。

「ほら見てください! うちのごはんの方が好きなんです!」


元の飼い主はショックに顔を青ざめる。

「先にそっちを……」


「食べ物の好みは所有権の根拠になりません。——証拠物件は食事をやめてください」

ルイーゼの声は冷ややかだ。


だが、モスハウンドに止まる気配はない。燻製魚を瞬く間に平らげると、すぐさま向きを変え、元の飼い主が持つ干し肉にも飛びついた。


両方の「証拠」を綺麗に食べ終えたモスハウンドは、満足げに口の周りを舐め、当然のような顔でルイーゼの膝の上へと帰還する。


元の飼い主が最後の手段とばかりに叫ぶ。

「名前を呼んでみてください! うちの子はこの名前で来ます!」


拾い主も負けていない。

「いいえ! こっちの名前です!」


二人が同時に名前を呼んだ。


魔獣は耳を動かした。

そして——ルイーゼの方を向く。


「「そっちじゃない!!」」


ルイーゼは、自分を真っ直ぐに見つめてくる魔獣の視線に辟易しながら、ぴしゃりと言い放つ。


「こちらでもありません」


所有権争いが白熱する。「遺棄だ」「いや脱走だ」「うちの子だ」「いやうちの子だ」。

魔獣はルイーゼの膝の上であくびをしている。眠そうだ。


「うるさいなあ」


不意に、子供のような高い声が法廷に響く。

罵り合っていた両当事者が、石像のように固まった。ルイーゼの手も、魔獣の背中で止まる。誰が喋ったのか、犯人を探すように視線が交錯する。しかし、法廷には関係者以外の子供などいない。


「僕は自分で出ていったんだよ」


声の主は、ルイーゼの膝の上で丸まっていたモスハウンドだった。彼は首をもたげ、大きな瞳で交互に二人の飼い主候補を見つめる。法廷が凍りつく。


ルイーゼは、頬を痙攣させながら、膝の上の毛玉を凝視する。

「…………」

「…………証拠物件が証言しました。——前例がありません」


「嘘! この子が喋るなんて——」

元の飼い主が絶叫する。

「私も知りませんでした——」

拾い主も腰を抜かしたように座り込んだ。


モスハウンドは面倒くさそうに尻尾をルイーゼの膝に叩きつけた。

「前から喋れたよ。喋ると面倒だから黙ってた。……でもうるさいから喋った」


「……いつから喋れるのですか」

「生まれたときから」


「……なぜ今まで黙っていたのですか」

モスハウンドは少しだけ嫌そうな顔をして鼻を鳴らす。

「喋ると"すごい! もう一回!"って言われるから。面倒」


ルイーゼは天を仰いだ。彼女は法衣の袖で口元を隠し、誰にも聞こえないような小声で漏らす。

(小声で)「気持ちはわかります」


ルイーゼは急速に顔を引き締め、姿勢を正す。

「では……証言を聞きます。なぜ元の飼い主の家を出たのですか」


「嫌だったから」


元の飼い主が悲鳴に近い声を上げた。

「えっ……」


「ごはん不味い。部屋狭い。散歩ない。……鳥追いかけたかったけど、窓開けてくれない」


「だ、だって危ないから……! 外には野良の魔獣もいるし、馬車に轢かれたらどうするんだ! 小さい体で一人じゃ生きていけないだろう! 閉じ込めたんじゃない、守ったんだ!」

元の飼い主は必死に食い下がる。不器用だが、純粋な愛情がこもっている。


魔獣は冷めた目で彼女を見上げた。

「僕が魔獣だよ」


ルイーゼは息を呑む。


「拾い主に保護された後、元の家に帰ろうとは思いませんでしたか」


「思わなかった。こっちの方がごはん美味しいし。窓大きいし。鳥見える」


「……拾い主のことは好きですか」


「好き。ごはん美味しいし」


「ごはん基準ですか」


「ごはんは大事だよ」


「……では、拾い主のところに戻りたいですか」


「……んー」


「?」


魔獣はゆっくりと顔を上げた。じっとルイーゼの瞳を見つめる。

「裁判官さんのおうちに行きたい」


「は?」


「いい匂い。あったかい。膝が一番いい。裁判官さんがいい」

モスハウンドは当然の権利であるかのように、ルイーゼの腕の中に潜り込もうとする。


「却下です」


「なんで」


「私は当事者ではありません!」


「当事者になって」


「なりません!——法廷で裁判官に引き取りを要求した魔獣は前例がありません!!」


ルイーゼは膝の上に魔獣を乗せたまま、判決を述べ始める。


「この魔獣が"物"であるなら、所有権の問題です。元の飼い主に返還すべきです」


元の飼い主が期待に満ちた表情で身を乗り出す。しかし、ルイーゼの言葉はそこで終わらない。


「しかしこの魔獣は喋りました。自分の意思で家を出たと。元の飼い主が嫌だと。——"物"は喋りません。"物"は嫌がりません」


「本法廷は魔獣の法的地位について判断する権限を持ちません。——だが目の前で"嫌だ"と言っている存在を、嫌がる場所に戻すことは、常識に反します」


「よって。所有権を拾い主に移転します。元の飼い主には拾い主から養育費相当額の賠償金を支払います」


元の飼い主が震える声を絞り出す。

「そんな……私は……あの子のために……」


「元の飼い主。あなたの愛情は疑いません。——だが愛情があっても、相手が"嫌だ"と言っているなら、それは尊重されなければなりません」


モスハウンドが上目遣いでルイーゼを見上げた。

「裁判官さんのところは?」


ルイーゼ「…………」


「本件の判決は以上です。証拠物件は——拾い主と一緒に退廷してください」


魔獣がルイーゼの膝から降りない。


「……退廷してください」


「やだ」


「退廷命令です」


魔獣はようやく名残惜しそうに膝から降りる。出口へ向かう途中で一度だけ立ち止まり、ルイーゼを振り返った。


「……じゃあ、またね」


「二度と来ないでください。」


◇◇◇


翌日。ルイーゼの自宅。朝。


窓を開けたら、魔獣が窓枠に座っていた。


「おはよう」


ルイーゼ「…………」


「……なぜここがわかった」


「匂い」


ルイーゼが頭を抱える。法的には拾い主の所有物。だが魔獣は自分で来た。


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