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第56話:しおりの代わりに

「最後に一点」


短い文。それだけで、法廷内の全ての視線が再び一点に収束する。


「この裁判の裁判官は、籤引きで選ばれました。自治区の法において、籤引きの結果は神の意志です」


彼は壇上のテレーゼを見上げる。

「テレーゼ神判官は私の友人です。神学院の同期です。——枢機官はこの人事に異議を唱えたと聞いています。しかし覆せなかった。籤引きの結果だからです。神の意志だからです」


ベネディクトの顔色が、不気味な紫へと変わっていく。


「枢機官。あなたは"神の秩序"を持ち出して私を裁こうとしています。——では、この裁判官を選んだ"神の意志"には従わないのですか」


法廷の空気は、極限まで張り詰める。

「自分に都合の良い"神の意志"だけを選んで、都合の悪い"神の意志"を無視する」


イグナーツはそこで一度言葉を止め、ベネディクトの目を真っ直ぐに見据えた。

「——それこそが不信ではありませんか。枢機官」


法廷が沸く。

傍聴席から溢れ出した感情が、巨大なうねりとなって石造りの空間を震わせる。ベネディクトはもはや声を上げることもできない。顔を紫に染め、震える手で演台を支えるのが精一杯だった。


テレーゼが、机を軽く叩く。

「被告。検察を挑発しないでください」


「挑発ではありません。事実の摘示です」

イグナーツは淡々と応じる。


テレーゼは深く息をつき、被告を真っ直ぐに見据えた。

「……ヴィクトール弁護士のような台詞を吐かないでください」


テレーゼは静かに着席し、手元の判決文へと視線を落とす。

法廷を支配していた喧騒は、彼女がただそこに座るだけで、潮が引くように消え去った。彼女はゆっくりと息を吸い込み、判決の理由を述べ始める。その声は低く、しかし大神判廷の隅々にまで染み渡るように響く。


「被告イグナーツ・メルヒオールの神律秩序違反について」


「被告は聖女ユイの呼応罪裁判において陪席判官を務めた際、神律第七章第五条に基づく送還手続きの存在を法廷に示しました。検察はこれを"教会の秘密の暴露"と主張します」


ベネディクト枢機官が、祈るように組んだ手に力を込める。

「——しかし。神律第七章第五条は公布された法律です。公布された法律の内容は、秘密ではありません。法律を公布しておきながら、その実務を秘密にすることは、法の趣旨に反します」


「次に。陪席判官の義務について。神律訴訟法第14条は、陪席は"法廷における真実の発見に寄与する義務を負う"と定めています。被告は送還方法の存在という事実を法廷に示しました。これは真実の発見への寄与であり、義務の履行です」


傍聴席の司祭たちが、顔を見合わせる。

「判例に照らしても——聖歴203年の穀物紛争事件において、陪席が専門知識に基づき法廷に情報を提示した行為は"真実の発見への寄与"として記録されています。一方、聖歴287年の神殿横領事件において、真実を隠した陪席は免職されています。真実を示した陪席は正しく、真実を隠した陪席は罰せられる。——被告の行為は前者に該当します」


テレーゼはそこで一度言葉を切り、ベネディクトへと厳しい眼差しを向ける。

「なお。被告の陪席としての推薦が検察自身によるものであることは記録上明らかです。推薦した人間が、推薦した陪席の法廷内での行為を告発する。——この構造そのものに、本法廷は疑義を呈します」


法廷内が静寂に包まれる。

ベネディクトの顔から血色が失われていく。


「無罪。」


「……この判決は、友人を庇った判決だ。籤引きの結果がどうであれ——」

ベネディクトが、絞り出すような声で異議を唱える。


テレーゼは応じた。

「枢機官。籤引きの結果は神の意志です。それは枢機官ご自身が、400年間、繰り返し仰ってきたことです。——今さら撤回されるのですか」


ベネディクトは、唇を震わせたまま黙り込んだ。


テレーゼはゆっくりと立ち上がる。

「神の意志に従います。——それが私の不信罪でないことを祈ります」


彼女の最後の一言が、高い天井へと吸い込まれていく。

大神判廷の重厚な扉が開かれ、イグナーツは静かに、光の中へと歩み出した。


◇◇◇


法廷の外、夕暮れに染まる大回廊。

石柱の影が長く伸び、風に乗って神殿の香油の匂いが漂ってくる。

テレーゼは柱に背を預け、イグナーツが来るのを待っていた。法衣を脱いだ彼女の肩に、裁判官としての重圧ではなく、柔らかな夕光が落ちている。

足音に気づき、顔を上げた。法廷での中立は終わった。今は友人の顔がある。


「久しぶりに面白い裁判だったわ。——被告席に座ってるあなたは初めて見たけれど」


イグナーツは、いつもの飄々とした足取りで彼女に歩み寄る。

「私もです。新鮮な体験でした。——裁く側と裁かれる側では、椅子の硬さが違いますね」


テレーゼは、くすりと小さく笑う。

「弁論の切れ味は相変わらず。——神学院の頃を思い出した。試験であなたの隣に座ると、自分の答案が不安になるのよ」


「あなたの答案は常に正確でした。——今日の判決も」


回廊を吹き抜ける風が、テレーゼの髪を揺らす。

「……ねえ、イグナーツ。一つだけ聞いていい。友人として」


「どうぞ」


「あの紙。——渡す前から、こうなると分かっていた?」


長い沈黙が、二人の間に流れる。

回廊の向こう、神殿の鐘が遠くで鳴り響く。

イグナーツは、夕闇に沈みゆく街並みを見つめたまま、何も答えない。

「…………」


テレーゼはふっと息を吐く。

「答えなくていいわ。法廷ではもう聞かない。——あなたの答えは、訴訟法第14条の中にある。それで十分」


「……ありがとうございます。判事」


「友人と呼びなさい。法廷の外では」

テレーゼはそう言い残し、軽やかな足取りで去っていった。


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