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第55話:あと三ページ

 イグナーツ・メルヒオールは、書斎の安楽椅子に深く腰を下ろしている。窓から差し込む午後の柔らかな光が、膝の上に広げた古びた本の頁を白く飛ばす。静寂が支配する部屋の中で、ページをめくる指先の微かな音だけが心地よいリズムを刻む。その平穏を破るように、廊下から複数の重い足音が近づいてくる。扉が遠慮なく開け放たれ、宗教自治区の紋章を胸に掲げた衛兵たちが室内へとなだれ込んだ。


先頭の衛兵が令状を突き出し、硬い表情で宣告する。

「イグナーツ・メルヒオール。神律秩序違反の容疑で——」


イグナーツは視線を本から外さない。その表情には驚きも焦燥もなく、ただ凪いだ水面のような穏やかさがある。

「ああ、来ましたか。——少しお待ちください。あと3ページで終わりますので」


衛兵たちは互いに顔を見合わせる。逃亡の恐れがある重要容疑者を捕らえに来たはずが、あまりの拍子抜けに毒気を抜かれた形だ。リーダー格の男が、疑念を込めて問いかける。

「……逃亡の恐れは」


「ありません。逃げるならあと2ページで逃げます」

イグナーツはこともなげに応じ、淡々と文字を追い続ける。沈黙が流れる。衛兵たちは、この男が醸し出す奇妙な圧力に押され、その3ページが終わるのを黙って待つしかなかった。


やがて、イグナーツは満足げに本を閉じる。革のしおりを丁寧な動作で挟み、机の端に置いた。ゆっくりと立ち上がり、上着の襟を正す。身支度を終え、自ら衛兵の前へ歩み寄る。


「お待たせしました。——手錠は必要ですか。逃げませんが」


衛兵は困惑したように視線を泳がせたが、腰のベルトから鉄製の手錠を取り出す。

「……規則ですので」


「そうですか。では規則に従いましょう。——私は規則に従う人間ですので」

イグナーツは淀みなく両手を差し出した。金属が噛み合う冷たい音が、静かな書斎に小さく響く。


◇◇◇


宗教自治区の心臓部、大神判廷。窓一つない厳格な選任の間で、裁判官を決めるための神聖な儀式が執り行われる。祭壇の上には、細工のない素朴な木製の籤箱が置かれている。そこには資格を持つ判事たちの名が記された紙片が収められている。


ベネディクト枢機官は、祭壇の前で彫像のように直立していた。彼の視線は鋭く、籤箱の一点を見つめている。今回の被告は、教会の秩序を乱した男だ。ベネディクトにとって、この裁判は揺るぎない神律の威信を回復するための、負けられない戦いである。


一人の神官が恭しく進み出る。無言で箱の中に手を入れ、指先で一枚の紙を摘み上げた。折り畳まれた紙が広げられる。


「神判官の選任結果を申し上げます。——テレーゼ・フォン・ハイリゲンシュタイン」


神官の声が、石造りの広間に静かに反響する。その名を聞いた瞬間、ベネディクトの表情が石になった。テレーゼ。神学院時代にイグナーツと同期であり、友人。彼女が選ばれたことは、ベネディクトにとって計算外の事態である。


「……もう一度引き直すことは」

ベネディクトの喉から、地を這うような低い声が漏れる。


神官は表情を崩さず、静かに、しかし断固とした口調で応じた。

「枢機官。籤引きの結果は神の意志です。引き直しは神の意志の否定に——」


「わかっている。」

ベネディクトは神官の言葉を遮る。その顔は、冷えた石のように動かない。


◇◇◇


翌朝。大神判廷にはステンドグラスから差し込む色彩の帯が、重厚な石床を鮮やかに彩っている。聖テオフィラスの肖像が見下ろす中、裁判官の入廷を待つ傍聴席には、凍りついたような緊張が満ちる。


テレーゼ・フォン・ハイリゲンシュタインは、背筋を伸ばし、裁判長席へと着席した。手元の書類を整えながら、隣に座る書記官へ、客席には聞こえないほどの小声で漏らす。

「……あの男と同期でなければよかったのに」


彼女の視線の先には、被告人席に座るイグナーツがいる。彼は落ち着き払った様子で前を見据えていた。テレーゼは一つ咳払いをし、粛々と手続きを開始する。


「被告。弁護人は」


「いません。本人弁護です」

イグナーツが明瞭な声で答える。


「弁護人をつけることを推奨します」

テレーゼが重ねて促すが、イグナーツは小さく首を振った。


「私の弁護を引き受ける弁護士はこの自治区にいません。引き受ければ自分も告発されますから。——ご安心ください。私は神学院を首席で出ています。法廷の手続きは知っています」


「……知っているでしょうね。——本人弁護を認めます」


続いて、検察側に立つベネディクト枢機官が立ち上がった。起訴状を広げ、威厳に満ちた声で読み上げを開始する。


「被告イグナーツ・メルヒオールは、聖女ユイの呼応罪裁判において陪席判官を務めた際、教会が非公開としていた送還術式の存在を法廷に提示した。これは陪席としての職権を逸脱し、教会の秘密を暴露する行為であり、神律秩序違反に該当する」


法廷内に重苦しい静寂が広がる。だが、イグナーツは一歩も引かずに声を上げた。


「裁判長。一つ確認してよろしいですか」


「どうぞ」

テレーゼが許可を与える。


「枢機官。"教会の秘密"と仰いましたが、私が法廷に提示したのは神律第七章第五条です。これは公布された法律です。——公布された法律が秘密なのですか」


ベネディクトの顔に影が差す。

「条文は公布されている。だがその実務的解釈——送還術式の存在と実行可能性——は教会の内部情報であり——」


「条文は公布されているが、条文に基づく手続きは秘密。——枢機官、それは法律の公布と秘匿を両立させているということですか。法律は守れと言うが、法律の中身は教えない。それは法律ですか。それとも暗号ですか」


傍聴席から抑えきれないどよめきが漏れた。壇上のテレーゼの口元が、一瞬だけ、波打つように動く。彼女はそれを隠すように書類へ目を落とすが、法廷には被告が放った第一撃の余韻が、熱く居座り続けている。


「陪席判官の義務について確認します。——陪席は誰のために法廷に座っていますか」


イグナーツの声が、静まり返った大神判廷に響き渡る。

彼は証言台の縁に軽く手を置き、対面に座るベネディクト枢機官を真っ直ぐに見据えた。傍聴席に座る司祭や信徒たちが、一斉に身を乗り出す。


イグナーツは手元の法典を開くこともなく続ける。

「神律訴訟法第14条。"陪席判官は、主席裁判官の審理を補助し、法廷における真実の発見に寄与する義務を負う"」


ベネディクトの眉が僅かに跳ね上がる。

「"法廷における真実の発見"。——私はこの義務に従いました」


「聖女ユイの裁判において、争点の一つは送還の可否でした。ユイは帰還を求めた。教会は送還方法がないと主張した。——しかし送還の術式は存在しました。神律第七章第五条に基づく手続きとして」


イグナーツは視線を緩めず、検察席を射抜く。

「陪席判官として、送還方法が存在することを知りながら黙っていれば——法廷における真実の発見を妨害したことになります。訴訟法第14条の義務に違反します」


ベネディクトが椅子を鳴らして僅かに身を乗り出す。不快感を隠そうともしない。

「枢機官。私が紙を渡さなければ、法廷は"送還方法がない"という虚偽の前提で判決を出すところでした。それは法廷にとって正義ですか」


「被告は陪席の立場を逸脱した。陪席は主席の審理を"補助"するのであって、独自に証拠を提出する権限はない」

ベネディクトの声は低く、威圧的だ。


だが、イグナーツは表情一つ変えずに応じる。

「紙を渡しただけです。提出ではない。——しかし仮に提出だとしましょう。陪席が法廷に真実を示すことは権限逸脱ですか。では陪席は何のために座っているのですか。主席の横で居眠りする役ですか」


傍聴席から、抑えきれない失笑と、それを咎める咳払いが混じり合う。

テレーゼが、手に持ったペンを机に置いた。

「被告。皮肉を控えてください」


「失礼しました」

イグナーツは短く頭を下げる。

「——では判例を引きます」


彼は一呼吸置き、法廷の隅々まで行き渡るように声を張った。

「一つ。聖歴二百三年、穀物紛争事件。陪席判官が自身の農学知識に基づき、穀物の品質鑑定結果の誤りを法廷で指摘しました。当時の主席裁判官はこの指摘を採用し、判決を修正した。この陪席は告発されるどころか、法廷の真実発見に寄与したとして記録に残っています」


傍聴席の書記官たちが、一斉に古い記録を繰る。

「もう一つ。聖歴二百八十七年、神殿財産横領事件。こちらの陪席判官は、横領の証拠を知りながら法廷で黙っていました。理由は、上位の神官に忠義を示すため。しかし後年、その事実が発覚した際、真実の発見を妨害したとして職務怠慢で免職されています」


イグナーツは言葉を切り、法廷全体をゆっくりと見渡す。

「整理します。法廷に真実を示した陪席は称賛された。法廷で真実を隠した陪席は免職された。——私はどちらに該当しますか」


イグナーツが静かに一歩、踏み出す。

「もう一点。——枢機官。私はなぜあの法廷にいたのですか」


ベネディクトの肩が、一瞬だけ、硬く強張る。額に薄っすらと汗が浮かぶ。


イグナーツは、答えを待たずに畳みかける。

「陪席判官は通常、主席裁判官の指名か、裁判所の割り当てで決まります。あの裁判では——枢機官が直接、私を陪席に推薦されました。記録に残っています」


傍聴席がざわつく。

「なぜですか。——私が教会に有利な意見を述べると期待されたからではありませんか」


ベネディクトの指先が、演台を強く握りしめる。

「……陪席の推薦は教会の権限の範囲内だ。推薦理由を述べる義務はない」


「結構です。推薦理由は問いません。——結果だけを問います」


「枢機官は私を陪席に推薦した。私は陪席として法廷に座った。そして法廷への義務に従い、真実を示した。——枢機官が望んだ結果ではなかったかもしれません。しかし陪席の義務は推薦者への忠誠ではなく、法廷への真実です」


「枢機官。あなたは陪席に何を期待していたのですか。真実を述べることですか。——それとも、あなたの望む結論を支持することですか」


ベネディクトは絶句する。

法廷は、針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれる。

テレーゼが、静かにベネディクトへ視線を向けた。

「……検察。反論はありますか」


ベネディクトの顔から血色が失われていく。何度か唇を震わせ、ようやく一つの言葉を捻り出す。

「…………教会の秩序を乱した。それが全てだ」


イグナーツは即座にその矛盾を断つ。

「教会の秩序と法廷の秩序が衝突したとき、陪席が従うべきはどちらですか。——神律訴訟法第14条は明確です。法廷の秩序です」


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補足として この裁判だけは裁判所の名誉(存在意義)の為にも絶対に原告側に勝たせてはいけない裁判だと思うし原告に勝たせたら裁判所の存在にも疑義が生じる事にもなるからです。 私はこの裁判をしている裁判…
此れは明らかに被告側(訴えられた側)が勝訴しますね。 何故ならどう考えても原告側の主張が通ったら裁判所としての存在意義を否定する事になるからです。 此れで原告側(訴えた側)が勝訴したら裁判所は要ら…
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