第54話:来た日に、また考えましょう
ヘルミーネが静かに問いかける。
「最後に、原告であるルッツさんに伺います。何か、言い残したことはありますか」
ルッツはゆっくりと立ち上がった。法壇を見上げるその瞳は、疲れ果て、ひどく濁っている。
「……法律のことは、やっぱりわかりません。専門的な基準も、難しい理屈も言えません」
ルッツの声は低く、かすれていた。
「でも、エーリアスは死にました。俺が知っているあいつはもう、どこにもいない。順番が違えば、あいつは今も笑っていたかもしれない。……あいつの死は何だったんですか。誰も悪くない、仕方がなかったなんて言われても、俺にはどうしても……」
言葉が途切れる。ルッツは白くなるほど拳を握りしめたまま俯く。法廷には、書記官のペンの音すら聞こえない。
「被告、前へ」
ヘルミーネの声に促され、レナーテは迷いのない足取りで証言台に立つ。
「あなたからも、最後に何かありますか」
レナーテは正面を見据え、一呼吸置いた。その瞳は、あの駐屯地で負傷者を見ていた時と同じ、静謐な輝きを保っている。
「同じ状況になれば、私はまた同じ判断をします。それが私の、治療師としての仕事だからです」
一拍の間。レナーテの視線がルッツのほうへ動く。この法廷で初めて、彼女が自分から誰かを見た。
「……助けられなかったことは、悔やんでいます。ルッツさん。あなたの仲間を助けられなくて、申し訳ありませんでした」
レナーテは深く、静かに頭を下げる。
ルッツがレナーテを見ている。恨みでも怒りでもない。ただ、答えの見つからない顔だった。
◇ ◇ ◇
ヘルミーネがゆっくりと立ち上がる。法廷内の全員が起立し、衣擦れの音が一瞬だけ広がって、すぐに消えた。静寂が極限まで張り詰める。
「主文。原告の請求を棄却します」
短く、明瞭な宣告が法廷に響く。
誰も動かない。ルッツの肩が小さく震え、ディルクは沈痛な面持ちで目を閉じた。レナーテだけが、表情を変えずに立っている。
ヘルミーネは感情を交えず、判決の理由を読み上げ始める。
「第一に、被告が依拠した治療順序は、グラーフエルデ辺境伯領における長年の慣習に基づくものでした。王国法に明確な優先順位の規定がない以上、現地の秩序維持を目的とした慣習に従うことは、直ちに注意義務違反とは認められません。
第二に、原告側が主張する『トリアージ』という概念についてです。これは現時点で本王国の法体系にも医療規範にも存在しません。法に定めのない基準を被告に求めることはできません。
第三に、予見可能性の不在です。被告がこの手法を知り得る機会は存在しませんでした。知り得なかったことを知らなかったことは、過失ではありません。以上の理由により、被告の行為に過失は認められず、損害賠償の請求は理由がありません」
判決を読み終えたヘルミーネは、一度座り直し、視線を穏やかにする。
「……ここからは判決とは別に、裁判所としての付言を述べます」
彼女はまず、微動だにせず立つレナーテを見つめた。
「被告。あなたの判断を過失とは認めません。ただし、あなたの手が届かなかった方がいたことは事実です。それはあなたの罪ではありません。ですが、どうか忘れないでください」
レナーテは短く「はい」とだけ答える。
次に、ヘルミーネはルッツへ向き直った。
「ルッツさん。この世界でまだ誰も知らないことを、知らなかった方の罪にすることはできません。エーリアスさんの死は、誰かの罪ではありません。あの夜の状況と、この世界の限界が重なった結果です。仲間を失った悲しみから声を上げたこと自体は、どうか責めないでください」
ルッツは何も答えない。唇を噛み締め、膝の上の拳が震えている。
最後に、ヘルミーネはディルクを見た。
「ディルクさん。あなたの訴えが誤りであったとは思いません。仲間を失った方の声を法廷に届けたこと自体は、責められることではありません。ただ、訴えの根拠となる概念がこの世界に存在するかどうか。そこを先に確かめることも、法を扱う者の務めです」
ディルクは深々と頭を下げた。
◇ ◇ ◇
法廷の外には、雲一つない青空が広がっている。
辺境伯の広間を出たときも青空だった。あのときルッツは怒りで拳を握りしめた。今は違う。怒る相手がいない。全部聞いてもらった上で、同じ答えが出ている。
「……結局、二度同じ答えが出たな」
ディルクが、並んで歩くルッツに静かに語りかける。
「辺境伯領でも、この王都でも。理由や手順は違っても、出た結論は同じだった」
「ああ」
ルッツの声には、もはや怒りも熱もない。ただ、使い古した布のように、くたびれた響きだけが残っている。
「道がなかったんだ。俺があいつに言った言葉は、この世界にはまだ、どこにも繋がってなかった」
ルッツは立ち止まり、眩しそうに空を見上げた。
「……エーリアスの墓に、報告しなきゃいけないな」
「なんて報告するんだ」
「わからない。わからないけど……行くよ」
ルッツはそれだけ言うと、ゆっくりと歩き出す。その背中は、以前よりも少しだけ小さく、そして頑なに見えた。
法廷の別の出口から、レナーテが一人で出てきた。辺境に帰る荷物を持っている。
振り返らない。王都の通りを歩く。ブルクハルト家の方角へ。帰れば同じ仕事が待っている。
ヘルミーネの執務室の窓から、夕刻の光が差し込んでいた。机の上の書類が橙に染まっている。
ヘルミーネは次の案件に目を通しかけて、ふと手を止めた。
今日の法廷でルッツが最後に見せた顔を思い出す。答えの見つからない顔。怒りでも悲しみでもない、ただの空白。
あの知識が間違っているとは言えなかった。この世界にまだない、というだけだ。
いつか同じ問いが、また別の法廷に届く日が来るだろうか。
「……来た日に、また考えましょう」
誰に言うでもなく呟き、ヘルミーネは次の書類をめくる。
窓の外には、穏やかな午後の名残が漂っていた。




