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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-4712号 治療順序 損害賠償請求事件
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第53話:存在しない道

「被告側の証人として、小領主ブルクハルト氏を呼びます」


 証言台に立ったのは、肩に白い包帯を巻いた初老の男だ。王都の壮麗な法廷に気圧されたように周囲を見回していたが、ヘルミーネの穏やかな会釈に促され、重い口を開く。


「……私は、レナーテ殿に命を救われました。あの夜、私の傷は深く、意識も途切れがちでした。彼女が私を最初に選んだから、私は今、ここにいます」


 ドルンが問いを重ねる。


「ブルクハルトさん。あなたの領における、治療の慣習について教えてください」


「はい。身分と所属の順です。まず領主。次に家臣。次に兵。外部の者は最後になります」


「なぜ、そのような順序なのですか」


「領主が死ねば、領地の運営が止まります。次の襲撃に備えることも、冬を越すための手配もできなくなる。私が治療を受け、翌朝すぐに指揮を執れたからこそ、あの村は全滅を免れました。私が倒れていたら、村は終わっていたでしょう」


 ブルクハルトの言葉は飾りがない。辺境の小領主が、自分の領地のことだけを語っている。その素朴さが、かえって重かった。


 ディルクが立つ。反対尋問。


「証人。エーリアス氏が後回しになったことについては、どうお考えですか」


「……気の毒に思います」


 ブルクハルトは短く答え、視線を落とす。それ以上の言葉はない。法廷に、包帯の白さだけが残っている。


「あなたは、自分よりも先にエーリアスを治療すべきだったとは思いませんか」


 ディルクが踏み込む。ブルクハルトが顔を上げた。


「……個人としてどう思うかと聞かれれば、申し訳ないと思います。ですが、私が倒れていたら村が持たなかった。それも事実です」


 ディルクはそれ以上追えない。ブルクハルトの答えには嘘がない。嘘がないから崩せない。


 続いて、ドルンがレナーテに視線を向ける。


「被告。あの夜の状況を、改めて確認させてください。負傷者は何名でしたか」


「五名です。重傷者が重なり、一人ずつしか治せませんでした」


「エーリアスさんの状態は、あなたが最初に見た時点でどうでしたか」


「重傷でした。すぐに治療すれば、助かる状態です」


「ブルクハルト氏も同様ですか」


「はい。どちらも、先に治療すれば助かりました」


 レナーテの声には、一片の揺らぎもない。


 ヘルミーネが一つだけ確認を挟む。


「つまり、どちらを先にしても、後回しにした方が死ぬ可能性があったということですね」


「はい」


 その一語が法廷に落ちた後、誰も口を開かなかった。書記官のペンすら止まっている。


 ドルンが続ける。


「何を基準に判断しましたか」


「雇い主が最優先。師匠にそう教わりました。この領では、十年間そうしてきました」


「他の判断基準を、検討しましたか」


「していません」


 一問一答。レナーテは聞かれたことにだけ答え、それ以上の弁明も、自身の正当性の主張もしない。ただ、与えられた職務を遂行したという事実だけが、そこに置かれていた。


 法廷に沈黙が落ちる。ペンを走らせる音だけが、彼女の言葉を無機質な記録へと変えていった。



 ◇ ◇ ◇



 ヘルミーネは手元の記録を一度整理し、顔を上げる。


「原告代理人。先ほど、この『トリアージ』という手法が、王国法にも、領法にも、医療規範にも存在しないことを確認しました。原告側はこの法廷に、何を根拠として主張を維持されますか」


「……医学的な妥当性です」


 ディルクは言葉を選び、慎重に答える。


「緊急度の高い者を優先し、救命率を最大化させる。これは救急救護における普遍的な合理性であると考えます」


 ドルンが静かに立ち上がった。


「裁判官殿。合理性があるかどうかと、法的根拠があるかどうかは別の問題です。仮に合理的な手法であったとしても、この世界で誰も知らなかったものを被告に求めることはできません。被告は辺境伯領の慣習に従い、十年間同じ判断を繰り返してきた。それ以外の基準を知る機会は一度もなかった」


 ドルンの反論には、辺境伯のような圧はない。だが、足場の確かさがある。何度も同じ議論を法廷で重ねてきた男の、静かな自信だ。


 ヘルミーネが双方に頷く。


「原告側が主張する合理性を、この世界でこれまでに証明した方はいますか。公的な研究、学術的な合意、過去の判例。何か一つでもございますか」


「……ございません」


 ディルクの声が、わずかに沈む。ヘルミーネは「わかりました」とだけ言い、ペンを動かした。


 ディルクがルッツに目配せする。最後の手札だ。


「ルッツ。トリアージについて、もう少し詳しく法廷に説明してくれ」


 ルッツが証言台に戻る。


 ヘルミーネが確認を挟んだ。


「ルッツさん。あなたの前世でのご職業は、どのようなものでしたか」


「……会社員です。事務とか、営業とか、そういう……」


「医療に関する専門的な教育は、受けたことがありますか」


「……いいえ」


 ルッツの声が小さくなっていく。傍聴席の端で、ディルクが唇を噛んで見守っている。


「では、その『トリアージ』という手法について。あなたはどこで、それを知ったのでしょう」


「それは……」


 ルッツは言葉に詰まる。テレビ、ネット、本。前世のあふれる情報媒体を、この世界の住人にどう説明すればいいのか。言葉を探し、視線が泳ぐ。


「詳しくなくて大丈夫ですよ。専門的に学んだわけではなく、どこかで見聞きした知識である、ということでよろしいですか」


「……はい」


 ルッツは力なく頷いた。


 ドルンが口を開く。


「裁判官殿。ただいまの確認で明らかになったとおり、トリアージの概念はこの世界に法的根拠を持たず、提唱者本人も専門家ではありません。被告がこの手法を知り得る機会は存在しなかった。知り得なかったものを基準に過失を認定することは、法の原則に反します」


 ディルクが最後の一手を出す。


「ルッツ。この手法の具体的な判定基準を、法廷に示してくれ。現場でどう判断するのか」


 ルッツは少し考え、答えた。


「重症度です。命に関わるような、重い方から……」


 ヘルミーネが静かに問いを引き取る。


「何をもって『重い』と判断しますか」


「それは……怪我の大きさとか、出血の量とか、そういう……」


「もし、ひどく出血している方と、意識を失っている方がいた場合、どちらが優先されますか」


「それは……」


 ルッツの言葉が止まった。ヘルミーネは急かすことなく、次の問いを重ねる。


「呼吸が止まりかけている方と、大量に出血している方が同時にいた場合は、どちらを先に治療しますか。その判断に迷う時間は、数秒もありません」


「…………」


 ルッツは唇を震わせ、沈黙する。


 法廷から音が消えた。傍聴席の誰もが息を止め、ルッツの沈黙を見守っている。窓から差し込む陽光の中で、塵が音もなく落ちていく。その一粒が落ちきるまでの時間が、ルッツには永遠に感じられた。


「答えられなくて当然です。無理に答えなくて大丈夫ですよ」


 ヘルミーネは柔らかく微笑んだ。


「それは専門的な訓練を受けた方が判断することですから。……ありがとうございます、ルッツさん。質問は以上です」


 ルッツは力なく椅子に腰を下ろす。膝の上に置いた両手が、小さく震えていた。


 ヘルミーネは手元の記録を閉じ、原告席を見る。


「原告代理人。主張の補充、あるいは訴えの変更などはありますか」


 ディルクは机の上に広げた訴状を見つめている。自分が組み立てた法的根拠が、一つずつ崩れていく。法にない概念を根拠にした。提唱者は素人だ。具体的な基準すら述べられない。


 ディルクは一度目を閉じ、深く息を吸う。隣のルッツを見た。仲間を失った男の顔。


「……維持します」


 ディルクは顔を上げる。


「法的根拠が十分でないことは認めます。ですが、現実に一人の若者が死んでいるんです。助かるはずだった命が、慣習という名の選別で後回しにされた。その事実を、この法廷に記録してほしい。最後まで、審理を続けてください」


 法廷に、ディルクの声が響く。辺境伯の城で書記見習いをしていた男が、王都の法廷で、自分の言葉で立っている。


 ヘルミーネは、その若い原告代理人を見つめ、一度だけ深く頷いた。


「わかりました。原告の意思を確認しました」


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