第52話:受け入れ
王都中央裁判所の受付窓口で、ディルクは丁寧に折り畳んだ訴状を差し出す。
窓口の書記官が目を通した。眉が動く。
「……辺境伯領の治療師に対する損害賠償請求。辺境伯の行政審判で退けられた案件を、こちらに」
「はい。司法の場で改めて審理を求めます」
ディルクの声は落ち着いていたが、訴状を持つ指先がわずかに白い。隣のルッツは黙って立っている。辺境伯の広間で門前払いにされてから、ここまで来るのに何日もかかった。
書記官が受理の印を捺す。乾いた音が、二人の耳に届いた。
◇ ◇ ◇
王都中央裁判所、第七法廷。
石造りの壁は辺境伯の広間と同じだが、そこには磨き抜かれた木製の法壇と、秩序立った静寂がある。高い窓から差し込む陽光が、宙に舞う微かな塵を白く照らしている。
ルッツは原告席の端に座り、法廷を見回す。辺境伯の広間とは何もかもが違う。あの広間には、石壁から染み出すような圧があった。座った瞬間から喉を塞がれているような息苦しさ。ここにはそれがない。空気が柔らかい。天井が高く、光が多い。ただ、それが安心を意味するのかどうかは、まだわからない。
「原告、被告、前へ」
法壇の中央に座る女性裁判官、ヘルミーネ・ベーアが穏やかに告げる。彼女の声は低く通るが、辺境伯のような威圧感はない。春の陽だまりのような、不思議な落ち着きを法廷に与えている。
原告席からディルクが立った。隣にルッツが並ぶ。
被告席では、レナーテが静かに立ち上がる。その隣に、灰色の髪を短く刈った壮年の男が控えている。ハインリヒ・ドルン。ブルクハルト家が手配した弁護士だ。辺境伯領の法務に長く携わってきた男で、落ち着いた佇まいに隙がない。
レナーテ自身は辺境から王都まで呼び出されても、疲れも動揺も見せない。十年間、同じ姿勢で負傷者の前に膝をついてきた人間の、揺るがない歩幅だった。
「これより、原告ルッツによる、被告レナーテに対する損害賠償請求事件の審理を開始します。——原告代理人、訴えの概要を」
ディルクが一歩前に出た。
「被告レナーテは、グラーフエルデ辺境伯領における盗賊襲撃の後、負傷者の治療にあたり、身分と所属に基づく順序で治療を行いました。原告の仲間であるエーリアスは最後となり、治療が間に合わず死亡しています。被告が適切な優先判断を行っていれば、エーリアスは救命できた可能性がある。治療判断の過失による損害の賠償を求めます」
声がわずかに上擦っている。辺境伯の城で書記見習いをしていた男が、王都の法廷に立っている。だが訴状の論理は整っている。
ドルンが立ち上がる。
「被告の代理人として申し上げます。事実関係については争いません。ただし、被告の治療判断は辺境伯領における長年の慣習に基づくものであり、過失にはあたりません。請求の棄却を求めます」
淡々とした口調だ。辺境の法廷で何度も同じ言葉を紡いできた男の、慣れた所作だった。
ヘルミーネがレナーテに視線を向ける。
「被告本人からも、何かありますか」
「事実については争いません。ただし、過失とは考えていません」
レナーテの声は淡く、法廷に波紋すら立てない。
ヘルミーネが頷く。
「では、原告側の立証から始めてください」
ディルクがルッツに目配せした。
「原告ルッツに証言を求めます。——ルッツ、あの夜のことを話してくれ」
証言台に立ったルッツは、法壇の上のヘルミーネを恐る恐る見上げる。辺境伯の広間での、あの有無を言わせぬ拒絶が脳裏をよぎる。あの場所では、自分の言葉は最後まで聞いてもらえなかった。
ヘルミーネが柔らかく微笑む。
「ルッツさん。緊張しなくて大丈夫ですよ。ゆっくりで構いません」
「……はい」
ルッツは話し始めた。
盗賊の襲撃、燃える松明。腹を深く斬られ、自分を呼んでいたエーリアスの声。そして、すぐ目の前に治療師がいながら、別の傷病者を優先され、次第に冷たくなっていった仲間の感触。
話しながら、ルッツの拳が膝の上で白くなっていく。ヘルミーネはペンを止めず、一度も口を挟まない。書記官のペンだけが、ルッツの言葉を紙の上に刻み続けている。
「あいつは、子供たちに手品を見せて笑うような、いい奴だったんです。まだ若くて、やりたいこともたくさんあったはずで……。それなのに、レナーテは『順番だ』って言って、あいつを見捨てた」
ルッツの声が震える。だが、ヘルミーネはそれを遮ることなく、静かに頷きながら聞き入っていた。
「もし、もっと早く治療を始めてくれていたら、あいつは死なずに済んだはずなんです。身分とか慣習とか、そんなことよりも先に救うべき命があったはずなんです」
語り終えたルッツは、深く息を吐く。
法廷には、ルッツの訴えの残響が漂っていた。辺境伯の広間では一蹴された言葉が、ここでは確かに、記録として刻まれていく。
「ありがとうございます、ルッツさん。あなたの思いは、しっかりと受け取りました」
ヘルミーネの言葉は、判決を約束するものではない。だが、ルッツの凍りついた心に、わずかな温度を分け与えていた。
ドルンが静かに立ち上がる。
「原告に確認します。あなたは、レナーテが治療を拒否したと主張しているのですか」
「……拒否じゃない。順番を間違えたんだ」
「では、レナーテはエーリアスさんの治療を行ったのですか」
「……行った。でも遅かった」
「彼女は、五人の重傷者を一人で治療していた。全員を同時に治すことなど不可能だ。その点は認めますか」
「……認めます。でも、順番が——」
「順番が違えばよかった。そうですね。その主張は理解しました」
ドルンはそれ以上追わず、席に戻った。必要なことだけを確認し、感情を刺激しない。
ディルクが続けて、トリアージの概念を提示する。
「原告の主張の核心を述べます。治療師には最善の判断を行う注意義務がある。身分ではなく、重症度に基づく優先判断——ルッツがトリアージと呼ぶ手法——を行うべきでした」
ヘルミーネが口を開く。
「原告代理人。その手法について確認します。これは王国法のいずれかに定められていますか」
「……いいえ」
ルッツの声が小さくなる。辺境伯にも同じことを聞かれた。あのときは「ないのか、あるのか」と圧で遮られた。ヘルミーネは遮らない。ただ、次の質問を置くだけだ。
「グラーフエルデ辺境伯領の領法には」
「ありません」
「この世界の医療に関する、公的な規範の中には」
「……どこにも、ありません」
三度目の「ありません」が、法廷の静寂に吸い込まれていく。ヘルミーネは表情を変えず、ペンを動かした。
「わかりました。記録します」
ドルンが再び立つ。
「被告レナーテに確認します。事件当時、この『トリアージ』という手法を知っていましたか」
「知りません。初めて聞きました」
「あなたが治療の順序を決めた基準は何ですか」
「雇い主です。この領では、そう教わりました」
「その基準以外の判断を検討しましたか」
「していません。検討する理由がありませんでした」
一問一答。レナーテは聞かれたことにだけ答え、それ以上の弁明も、自身の正当性の主張もしない。ドルンも余計な質問をしなかった。必要な事実だけを法廷に残していく。
ヘルミーネはレナーテの瞳をじっと見つめ、やがて小さく息を吐く。
「……わかりました。引き続き確認を進めます」




