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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
Z-4712号 治療順序 損害賠償請求事件
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第51話:門前払い

辺境伯領グラーフエルデの駐屯地で、レナーテは治療師として十年働いてきた。派手な奇跡などここにはない。壊れた道具を修理するような、淡々とした作業の積み重ねがあるだけだ。


 その日の夕刻、冒険者のパーティが立ち寄った。リーダーのルッツ、書記見習い上がりのディルク、そして若い前衛のエーリアス。依頼の途中で宿を探している。


 エーリアスが村の子供たちに手品を見せて笑わせている。陽光のような屈託のなさが残る青年だ。



 ◇ ◇ ◇



 夜、平穏は鋭い悲鳴によって切り裂かれる。


 暗闇から現れたのは、飢えた獣のような盗賊の集団だった。駐屯地は一気に戦場へと変貌し、怒号と金属音が交差する。松明の火が不安定に揺れていた。


 盗賊が退けられた頃には、治療所の床に赤黒い溜まりが広がっている。


「レナーテ! 早く、エーリアスが!」


 ルッツの叫びが響く。彼の腕の中では、エーリアスが腹部を深く斬られ、顔を白くして喘いでいた。


 だが、レナーテの足が止まったのは、その手前だ。


 この地の小領主、ブルクハルトが肩から胸にかけて深い傷を負い、椅子に崩れ落ちている。


 レナーテは膝をつき、迷わずブルクハルトの傷口に手を当てた。


「おい、何をしてるんだ! エーリアスの方がひどいんだぞ!」


 ルッツの声が裏返る。


「順番です」


 レナーテは顔を上げず、淡々と魔力を注ぎ始める。


「順番って、そんな……! そっちはまだ意識があるじゃないか。エーリアスはもう、呼吸が――」


「順番です」


 繰り返される言葉には、拒絶も同情も含まれていない。ただの事実としての提示。


 ブルクハルトの傷が塞がっていく。その間にも、エーリアスの喉を鳴らすような呼吸は、少しずつ、確実に間隔を空けていった。


「レナーテ、頼む! あいつはまだ若いんだ。死なせないでくれ!」


 ——違う。順番が、違う。


 死にかけている奴から先に治すべきだ。なぜわからない。なぜ、まだ意識のある人間を先に治して、今にも止まりそうな命を後に回す。


 ルッツの悲痛な叫びを、レナーテは背中で受け流す。彼女の手は、ブルクハルトの止血を終え、次に隣で倒れていた騎士の治療へと移った。


「……レナーテ、さん」


 微かな声がした。ルッツの腕の中で、エーリアスの瞳が虚空を彷徨っている。


 ようやく、レナーテが彼のもとに膝をついた。


 指先から光が漏れる。だが、それはあまりに弱々しく、彼の中に吸い込まれていくことはない。


 エーリアスの体が一度だけ大きく跳ね、そして、全ての力が抜けた。


 沈黙が落ちる。


 ルッツは呆然と、冷たくなり始めた仲間の手を見つめていた。ディルクはただ、その場に立ち尽くし、奥歯を噛み締めている。


 レナーテは静かに手を離し、立ち上がる。


「……死んだ」


 ルッツの掠れた声。


「手遅れでした」


 レナーテは返り血のついた手を布で拭う。その動作には一点の淀みも、後悔の陰りも見えない。


「順番を守らなければ、もっと多くの者が死んでいました。私は、私の仕事をしただけです」


 彼女はそのまま、まだ治療を待つ他の負傷者のもとへと歩き出す。背後に残されたのは、崩れ落ちるルッツの嗚咽と、夜の冷気だけだった。



 ◇ ◇ ◇



 翌朝、ルッツの目は赤く腫れ、声は砂を噛んだように枯れている。


「……俺の世界では、違ったんだ。怪我の重さで、治す順番を決めていた。身分なんか関係ない。どっちが先に死ぬか、それだけで判断する。あの夜、エーリアスのほうが先に死にかけていた。なのにあいつは——」


「……訴えるのか」


「ディルク、力を貸してくれ」


「わかった。ここでの手続きは俺が一番知っている。訴状は俺が書く」



 ◇ ◇ ◇



 グラーフエルデ、ゲオルクの広間には一切の装飾がなかった。剥き出しの石壁は冷たく、高い天井は音を無情に反響させる。


 重厚な足音が響き、大柄な男が上座の椅子に腰を下ろす。彼が座るだけで、広間の温度が数度下がったかのような錯覚に陥る。


「始めろ」


 ゲオルクの短い命令で、午前の行政審判が始まった。


「次。南村の麦、納入遅延の件」


「不問。次回の納入を二割増しにしろ」


「街道の補修予算、追加申請」


「却下。既存の資材を回せ」


 案件が数秒単位で処理されていく。辺境伯は一切の迷いを見せず、感情を排した声で領地を裁いていた。そこにあるのは、圧倒的な効率と、逆らうことを許さない支配の圧だ。


「……次。冒険者ルッツ、並びにディルク。治療師レナーテに対する異議申し立て」


 場の空気が一段と冷え切る。


 ルッツとディルクが前に出た。ディルクの指先がわずかに震えているのを、隣のルッツは捉えている。


 辺境伯は手元の訴状に目を落とす。


「……書き慣れた奴が書いたな。ディルク、お前か」


「はい」


 ディルクが声を絞り出す。


「お前は城下の出だな。ならば、ここの慣習は知っているはずだ。身分ある者を先に、税を納める者を次に。それを知った上で、俺に訴えるのか」


「……知った上で、訴えます」


 ゲオルクの鋭い視線が二人を射抜く。一拍の沈黙。辺境伯の目は、情を排した冬の湖のように静まり返っていた。


 ルッツは一歩踏み出し、上座のゲオルクを見上げる。


「俺の仲間は、後回しにされて死にました。もっと重傷で、今すぐ治療が必要だったのに、レナーテは身分を優先した。俺の世界には『トリアージ』という基準があります。命を救うための、公平な順番が――」


「それは、この領の法にあるか」


 ゲオルクが言葉を遮る。


「……いえ。ですが、人道的に――」


「ないのか、あるのか」


 低い声が広間に響き、ルッツの言葉が凍りつく。


「……ありません」


「お前は医術を修めているのか」


「いえ……」


「つまり。医術を修めていない転生者が、どこの法にもない独自の理屈を、この領の治療師に強いたということか」


 ゲオルクの言葉は、事実のみを繋ぎ合わせてルッツの主張を無力化していく。


「事実を確認した」


 辺境伯はそれ以上、ルッツに喋らせなかった。


 横からディルクが声を上げる。


「閣下、治療師には最善を尽くす注意義務があります! 目の前の命を救える可能性があったのに、それを放棄したのは明白です」


「言ってみろ。その『最善』を決めるのは誰だ」


 ゲオルクの視線がディルクに移る。


「それは……治療師本人の判断、あるいは――」


「この領の慣習だ」


 断じられ、ディルクが言葉を詰まらせた。


「慣習に従い、領主と騎士を救い、防衛能力を維持する。それがこの領における最善だ。個人の感情でその順序を乱すことは、領全体の安全を損なう行為に他ならない」


「では、その慣習そのものが間違っていた場合は! 目の前の命を救うことより、身分が大事だというのですか!」


 ディルクの叫びに、ゲオルクはわずかに椅子から身を乗り出す。


「この領の慣習は、代々の領主が積み上げてきたものだ。間違いだと言うなら俺に言え」


 圧倒的な質量を持った沈黙が落ちる。ディルクは唇を噛み締め、拳を握りしめた。


「一人の冒険者と、この地を治める領主。どちらを優先すべきか、答えの出ない問題ではない」


 ゲオルクは手元の書類を脇に押しやる。その動作一つに、ルッツたちの訴えを「処理済み」として切り捨てる冷徹さが宿っていた。


 ゲオルクはゆっくりと立ち上がった。その巨躯きょくが二人を影の中に閉じ込める。


「裁定を下す。レナーテの行為に過失はない。この領の慣習に従ったまでだ。訴えは退ける」


「そんな……!」


「ルッツと言ったな。ない道を示して、歩かなかったと責めるな」


 ゲオルクは一瞥もくれず、背を向けて広間を去る。


 残されたのは、凍りついたような静寂と、やり場のない憤りだけだった。


 広間の外に出ると、突き抜けるような青空が広がっている。だが、ルッツの心は暗く沈んだままだ。


「……納得できるか、ルッツ」


 ディルクが問いかける。


「できるわけないだろ。あいつ、最後になんて言った? 道がないなら、作ればいいじゃないか」


 ルッツは白くなるまで拳を握り直した。


「……王都へ行こう、ルッツ」


 ディルクが、決意を込めた目で言う。


「王都の中央裁判所なら、辺境伯の『圧』は届かない。あそこには法がある。手順を踏めば、必ず最後まで話を聞いてもらえる。門前払いにはならない」


「……ああ。行こう」


 二人は一度も振り返ることなく、馬車へと向かった。


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