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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
EK-510号 魔王討伐支援申請 殺人事件
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第44話:自称勇者がやったこと

 市場の喧騒は、そこだけが凍りついたように静まり返っている。


 数日前まで、小柄な鬼族の老女が大きな鞄を広げていた場所。今は、色褪せた石畳の上に数束の花が手向けられ、冷たい風に震える。


「ゴーラばあちゃんの店、もう開かないんだな……」


「あの『勇者』とかいう奴に……。信じられねえよ」


 通りがかりの商人が足を止め、短く吐き捨てて去っていく。


 その花の前に、一人の女性が立っていた。


 外征審査局の上級審査官、ハンナ・メッサーシュミット。


 窓口でのどんな無礼な振る舞いにも、あるいはどんな愚かな叫びに対しても、一度として絶やすことのなかったあの穏やかな微笑みが、今はどこにもない。


 ただ、温度を失った瞳で、枯れ始めた花弁を見つめている。


「ハンナ審査官」


 背後から、書記官が控えめに声をかけた。


「裁判所より、正式に出廷の要請が届きました。……証人としてです」


 ハンナは視線を動かさない。


「……わかっています」


 短く、鋭い声。


 彼女はゆっくりと踵を返し、審査局へと続く石畳を歩き出した。



◇◇◇



 重苦しい沈黙が、石造りの法廷を支配している。


 主席裁判官ローレンツが、法壇の中央に腰を下ろした。その鋭い視線が書類へ落とされると、傍聴席に座る群衆は、吐息を漏らすことすら躊躇う。だが、その静寂はすぐに、波立つようなざわめきへと変わった。


 法廷の一角、補助参加人の席に、一人の巨躯が座っている。


 褐色の肌を覆う硬質な鱗。金色の縦瞳。頭部から後ろに伸びる二本の角。


 ラドミル・ドラケンシュタイン。ヴァルガス大公領の法務官であり、正式な手続きを経てこの裁判に立ち会う竜人だ。


「魔物が、法廷に……」


「大公領の役人だって? そんな馬鹿な」


 傍聴席の住人たちは、これまで「敵」と呼んでいた存在が、自分たちと同じ司法の座に就いている事実に戦慄する。


 そこへ、一人の少年が引き立てられてきた。


 ユウキ・アサヒ。数日前まで、陽光を反射して輝く銀色の鎧を纏っていた「勇者」だ。


 今の彼が身に纏うのは、くすんだ灰色の囚人服。背負っていた聖剣の代わりに、その両手首には冷たい手枷が嵌められている。一歩進むたびに、重苦しい鎖の音が床に響く。


 ユウキはふと顔を上げ、参加人席に座るラドミルと目が合った。


 その瞬間、ユウキの身体が凍りつく。倒すべき敵。討伐すべき魔王の配下。かつての彼なら迷わず剣を抜いたであろう存在が、今は静かに、知性を湛えた瞳でこちらを見つめている。しかも被告席ではなく参加人席に。


 ユウキは縋るように傍聴席へ視線を投げた。そこにはブルーノ、エリザ、テオの三人が並んで座っている。


 だが、彼らは誰一人としてユウキと目を合わせない。全員が、自らの罪を数えるように深く俯いている。


「開廷します」


 ローレンツの低く通る声が、ざわめきを切り裂く。


「被告人ユウキ・アサヒ。罪状、殺人。被害者、ゴーラ・グラン。ヴァルガス大公領出身の商人。享年七十八歳。——認否を」


 ユウキは、震える唇を噛み締めて前へ出た。


「俺は……。俺は、悪いやつを倒しただけだ。あのおばあさんは、この都市を洗脳してたんだ!」


「認否を聞いています。殺害の事実を認めますか」


 ローレンツが、ユウキの言葉を冷たく遮る。


「……殺したのは、認めます。でも——」


「事実を認めた。——動機の審理に入ります」


 


「証人、ブルーノ。……前へ」


 検察官ゾフィーの声が、冷え切った法廷に響く。


 巨漢の戦士ブルーノは、まるで重い鎖を引きずっているかのような足取りで証言台に向かう。かつての冒険で培った堂々たる体躯は見る影もなく、その肩は小さく震えていた。


 ゾフィーが手元の記録をめくり、鋭い視線を被告席へ向ける。


「証人。数日前、被告人ユウキ・アサヒは外征審査局において、魔王討伐支援申請を不受理とされました。まずはその直後、宿に戻った際の被告人の様子を聞かせてください」


 ブルーノは一度、被告席のユウキを見た。ユウキは虚空を見つめ、何事かを呟き続けている。


「……最初は、ただ落ち込んでいました。自分の聖剣も、神様から授かった使命も信じてもらえなかったって。『どうしよう』『これからどうすればいいんだ』。そんなことばかり口にして」


 ブルーノの声は、今にも消え入りそうに細い。


「変化が起きたのは、いつですか」


「翌日の朝です。急に、顔つきが変わった。あいつ……ユウキは言いました。『この都市はおかしい。みんな魔王の手下に洗脳されているんだ』って」


 傍聴席が小さくどよめく。


「洗脳、ですか」


「ええ。自分を止めようとするギルドの受付も、役所の審査官も、みんな魔王に操られているんだと。そして……」


 ブルーノは言葉を切り、苦しげに顔を歪める。


「市場で会ったゴーラさんのことを言い出したんです。あのお婆さんは三十年もこの街にいる。それは三十年かけて、街の人間に少しずつ魔王の毒を盛るためだったんだ、って」


 ゾフィーは頷き、さらに問いを重ねる。


「あなたは、被告人を止めようとはしなかったのですか」


「止めました。何度も! 『ゴーラさんはただの商人だ』『洗脳なんてあるわけないだろう』って。でも、ユウキはもう俺たちの言葉を聞こうとしなかった」


 ブルーノが拳を握りしめ、カウンターを叩くような仕草を見せる。


「あいつは俺を指差して笑ったんです。『ブルーノさん、あんたも洗脳されてるんだ。かわいそうに。俺が助けてやるからな』って。……俺の声は、もう届かなくなっていた」


 法廷の空気が、さらに一段と冷え込む。


「そして三日目の朝ですね」


「はい。起きたら、ユウキが一人でいなくなっていた。俺が追いかけたときには——もう遅かった」


 ブルーノの視線が、床の一点に固定される。


「ゴーラさんが、いつものように店を開ける準備をしていたんです。重い荷物を運んで、少し腰を叩いて……。そこへ、ユウキが……」


「被告人は、どのように被害者を殺害したのですか」


「背後から、でした」


 絞り出すような声が、静寂を切り裂く。


「叫び声も、警告もなかった。ユウキはただ、あのお婆さんの背中を……あの聖剣で」


 ゾフィーが証拠品として提出された「聖剣」を指し示す。


 かつて神聖な輝きを放っていたはずの刀身は、今はくすんだ赤黒い染みを纏い、無機質な凶器として卓上に置かれている。


「被害者は七十八歳の、非武装の女性です。対抗手段など、あるはずもありません」


 検察官の声が、凍りついた法廷に冷たく響く。


「被告人は、無抵抗の高齢者を背後から突き刺し、その命を奪った。抵抗の痕跡は、一切認められませんでした」


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