第43話:殺す前に……
審査局の外、並木道に置かれた木製のベンチ。
ユウキはそこに力なく座り込んでいる。昼下がりの陽光が銀色の鎧に反射するが、その輝きはどこか虚しい。
「……妄想、か」
ぽつりと呟いた言葉が、乾いた風にさらわれて消える。
「あんた、さっきから随分と難しい顔をしてるねえ」
不意に横から声をかけられた。
見上げると、小柄な老女が立っている。頭の両脇から短い角が突き出した鬼族の老婆だ。使い込まれた革の鞄を肩にかけ、穏やかな笑みを浮かべている。
「……おばあさん。この街の人?」
「ああ。このエクイリブリアで商売を始めて、もう三十年になるかねえ。ゴーラっていうんだ。よろしくね、勇者様」
ゴーラは慣れた手つきでベンチの端に腰を下ろした。ユウキの重武装を見ても、怖がる様子は微塵もない。
「……勇者じゃないです。さっき、あの中の窓口で『自称』だって言われました。俺がやろうとしてることは、ただの殺人計画だって」
ユウキが膝の上の拳を握りしめる。
「魔王を倒しに行こうとしたら、犯罪だなんて。そんなの、おかしいじゃないですか」
ゴーラは「ふうん」と短く相槌を打ち、鞄から包みを取り出した。
「この都市じゃ、それが当たり前だよ。ここは誰の敵でもない場所だからね。——ねえ、あんた。その魔王陛下には、会ったことはあるのかい?」
「ないです。会うのは、戦う時だって決まってますから」
「会ったこともない相手を、殺しに行くのかい」
至極当然のような問いに、ユウキは言葉を詰まらせた。
「だって……魔王は人間の敵で、悪いやつだから。放っておいたら、世界がめちゃくちゃになる。そんなの、常識ですよ」
「誰がそう言ったんだい?」
「みんなそう言ってます。物語だって、酒場の噂だってそうだし、王国の人たちはみんな、魔王を怖がって……」
ゴーラはふふ、と喉を鳴らして笑う。
「その『みんな』のうち、魔王陛下に直接会ったことがある人は、何人いるんだろうねえ」
「それは……」
「魔王陛下はね、先月、あたしの孫の誕生日に手紙をくれたんだよ。『健やかに育ちますように』ってね。あの方は字が下手でさあ。大きな手で、一生懸命に小さな字を書くんだ。あたしが納めた品を、いつも大事に使ってくれる、優しい人だよ」
ゴーラが語る「魔王」の姿は、ユウキが知る邪悪な支配者像とはあまりにかけ離れていた。
「手紙? そんなの、ただのポーズですよ。裏ではきっと、恐ろしいことを企んでるに決まってます」
「まあ、あたしが何を言っても、あんたは信じないだろうけどね」
ゴーラは立ち上がり、重そうな鞄を担ぎ直した。
去り際、彼女は一度だけ振り返る。
「——会ってみなさいよ。殺す前にね」
◇◇◇
午後の審査局。窓口の空気は、午前中の嵐のような追及を経て、どこか静まり返っている。
ハンナは手元の書類を整え、眼鏡を直すと、ユウキの目をまっすぐに見据えた。
「さて、結論を申し上げます。今回の『魔王討伐支援申請』は、現状では受理できません」
その宣告は、余計な装飾を排した、事務的で冷徹なものだ。
ハンナは指を一本ずつ立てながら、その理由を淡々と並べていく。
「理由は四点。第一に、申請者の身元が法的に不明であること。第二に、公的な命令や委任が存在しない自発的行動であること。第三に、その目的が宣戦布告なき他国元首の殺害、すなわち暗殺計画であること。そして第四に、道中における戦闘行為が国内法および国際法に抵触する恐れが極めて高いこと」
ユウキは力なく肩を落とし、カウンターに突っ伏した。
「……じゃあ、俺は何もできないんですか。せっかくチートスキルをもらって、この世界に来たのに。何もしないで、ただ生きてるだけでいいって言うんですか」
「世界を救いたい、というお気持ちは否定いたしません」
「だったら……!」
「ですが、世界を救う方法は、殺害だけではありません」
ハンナの声が、わずかに柔らかさを帯びる。
彼女は机の引き出しから、別の青い表紙のファイルを取り出した。
「この都市には、ヴァルガス大公領出身の商人も多く居住しています。中には、あちらの国情に詳しい方もいらっしゃる。まずは、そうした方々と話し合ってみてはいかがでしょうか」
「話し合い……。魔王と、ですか?」
ユウキが信じられないといった風に聞き返す。
「大公領との間に何らかの紛争、あるいは不利益を被る事象があるというのなら、まずは外交交渉で解決を図るのが文明的な手段です。幸い、ここエクイリブリアはそのための仲介を専門とする都市ですから。手続きさえ踏めば、会談の場を設けることも不可能ではありません」
ハンナはペンで書類の余白を叩き、静かに核心を告げる。
「殺しに行く前に、話しに行く。それだけのことです。あなたが本当に正義を望むなら、相手がどのような人物で、何を考えているのかを知る義務があるはずですよ」
ユウキは呆然と立ち尽くす。
「魔王と……話す……」
その選択肢は、彼の知る「勇者の物語」には存在しなかった。敵は倒すべきものであり、レベルを上げてぶつかるべき障壁だったからだ。
「ユウキ」
背後から、魔法使いのエリザが声をかけた。
「私は……一度、話を聞いてみてもいいと思う。あのおばあさんに聞いた話も、気になるし」
「しかし、神の敵ですよ!」
テオが強く反論する。
「邪悪な魔王と交渉するなど、我々の信仰が許しません。そんなことをすれば、神の加護が——」
「テオ。落ち着け」
戦士ブルーノが、大きな手でテオの肩を叩く。
彼は一歩前へ出ると、窓口のハンナとユウキを交互に見つめた。
「俺たちは、魔王に会ったことがない。それが事実だ。テオ、お前が言っているのは『教典の中の魔王』だろ? 目の前の相手が本当に殺すべき怪物かどうか、会ってから決めても遅くないはずだ」
ユウキは仲間の顔を見渡し、最後にハンナを見た。
彼女は、まるでお手本のような、完璧に事務的な微笑を浮かべて待っている。
「殺しに行く前に、話しに行く。……わかりました。やってみます」
ユウキの決意を聞き、ハンナは満足げに頷いた。
彼女は新しい書類——「外交仲介申請書」を取り出し、ユウキの前に差し出す。
「では、こちらの書類にご記入ください。様式はB-3、全部で二十ページ。……先ほどのA-7より、ずっと短いですよ」
「それでは、最終的な決定を申し上げます」
ハンナは背筋を伸ばし、重厚な机の上に置かれた申請書に「不受理」の大きな赤いスタンプを押した。
「外征支援申請、第1124号。——不受理とします」
「……やっぱり」
ユウキはがっくりと肩を落とす。
「理由は先ほど申し上げた通りです。申請者の法的地位が不明確であり、公的な機関からの命令や認定も一切存在しない。そして何より、目的が国際法上の暗殺にあたる以上、現状のままでは、あなたの『冒険』を支援することは不可能です」
ハンナはそこで言葉を切り、カウンターの下から別の青い書類を取り出した。
「ただし。魔王……もとい、ヴァルガス大公領との外交交渉の仲介を希望される場合は、こちらの外交仲介申請書、様式B-3を提出してください」
「……それ、何ページあるんですか?」
「たったの二十ページです。先ほどの八十ページもあったA-7より、ずっと短いですよ」
「二十ページ……まだ長い……」
ユウキが遠い目をする。
ハンナはそんな彼を、穏やかな目で見つめる。
「ユウキ様。世界を救うのに、二十ページは安いものだと思いませんか?」
「それは……まあ、そうですけど」
「よろしい。なお、補足しておきますが」
ハンナはペンを置き、指先を組んだ。
「交渉の結果、どうしても大公領との間で武力衝突が避けられない、戦争以外に道はないと判断された場合。——その時は改めて、正式な宣戦布告の手続きをご案内いたします。手順を正しく踏めば、戦争はできます。あなたは堂々と、軍を率いる将として、あるいは正規の勇者として戦うことができるでしょう」
ユウキが顔を上げる。
「戦争は……してもいいんですか?」
「法は戦争を禁じていません。手続きなしの暴力を禁じているのです。それだけのことですよ」
「では、今日はお疲れ様でした。お気をつけて」
窓口に、夕刻の柔らかな光が差し込む。
勇者とその仲間たちは、一束の書類を抱え、重い足取りで審査局を後にした。
◇◇◇
審査局のロビー、隅の待合椅子。
ユウキは、今度は青い書類と格闘している。
「『交渉の目的』欄……。えーと、『魔王がなぜ人間を攻撃するのか聞きたい』……でいいのかな?」
「ユウキ、その表現は少し挑発的じゃないかしら」
隣で覗き込むエリザが、朱筆を入れるようにペンを指差す。
「『両国間の緊張の原因について協議したい』とか、もっと外交的な書き方にすべきだわ」
「うう……。日本語でもこんな難しい書類、書いたことないのに……」
◇◇◇
市場の雑踏。
戦士ブルーノは、夕食の買い出しの途中で足を止める。
目の前の露店では、昼間の老女ゴーラが、手際よく荷物を整理していた。
「あんたたち、まだこの街にいたのかい」
「書類が終わらなくてな。……ゴーラさん、一つ聞いていいか」
ブルーノが問いかけると、ゴーラは「なんだい」と手を止める。
「魔王は……ヴァルガス大公は、本当に話が通じる相手なのか?」
「あんたねえ」
ゴーラは可笑しそうに笑った。
「話が通じない相手と、あたしが三十年も商売を続けてこられると思うかい?」
「…………そうか」
ブルーノは短く答えると、少しだけ晴れやかな顔で、夕食の肉を買いに向かった。
◇◇◇
街外れの礼拝堂。
僧侶テオは、夕暮れの祭壇の前で立ち尽くしている。
「魔王は神の敵だ。……それは教典に書いてある通りだ」
握りしめた杖が、小さく震える。
「でも、会ったことがない相手を『敵』と呼び、殺すのが正しい道なのか……?」
神の沈黙が、今のテオには唯一の答えに思えた。
彼は静かに目を閉じ、明日、自分が交わすべき言葉を必死に手探りする。
◇◇◇
外征審査局、窓口。
ハンナは机の上を整理し、次の番号札を呼んだ。
「次の方、どうぞ」
「あ、すみません。冒険者として、大公領の近くにあるダンジョンに行きたいんですが……」
入ってきたのは、いかにも駆け出しといった風貌の青年だ。
ハンナは淀みのない動きで、棚から書類を抜き出す。
「では、通行許可申請書、様式C-2をどうぞ。——十二ページあります」
「じゅう……二ページ……?」
「安全のためです」
絶望したような声を上げる青年に、ハンナは今日一番の、穏やかで美しい笑顔を向けた。
「お疲れのようですね。——お茶をお持ちしますね」




