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異世界判事―その奇跡、証拠はありますか?―  作者: 麻野籐次郎
EK-510号 魔王討伐支援申請 殺人事件
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第45話:洗脳と信頼

「被告。あなたは被害者が『洗脳』を行っていたと主張していますね。その客観的な証拠を提示してください」


 主席裁判官ローレンツの問いに、ユウキは手枷の嵌まった拳を固く握る。


「……証拠なんて、街を見ればわかるじゃないですか! この都市の人間は全員、魔王の味方をして、あの婆さんに親切にしている。敵国の人間が街の中にいるのに、誰も疑わない。そんなの普通じゃない。洗脳されているとしか思えません」


 ローレンツは、呆れた様子も見せず、淡々と返した。


「被害者のゴーラ・グランはこの都市で三十年間、商売を続けています。三十年来の隣人に親切にすることは、市民として『普通』の振る舞いではありませんか?」


「三十年もいたからこそ、怪しいんだ! ずっと潜伏して、少しずつ毒を回してたんだよ!」


 ユウキの叫びを、検察官ゾフィーが書類の束を捲る音で遮る。


「被害者の公的な記録を読み上げます。市民権取得、三十二年前。納税記録、三十年間無欠。近隣住民からの苦情記録、ゼロ。犯罪歴、なし」


 ゾフィーは一枚の羊皮紙を高く掲げる。


「被害者はこの都市において、非の打ち所がない模範的な市民でした。被告人の主張する『洗脳』の形跡は、本人の主観以外、この世のどこにも存在しません」


「そんな……。嘘だ。あいつらは、巧妙に隠してただけで……」


 ユウキの言葉が力なく霧散する。ローレンツが冷徹な宣告を下した。


「被告。あなたが『洗脳』と呼んでいるものは、三十年間の積み重ねによる『信頼』です。信頼と洗脳の区別がつかないのであれば——あなたは、この世界のどの善意も脅威に見えるでしょう」


 その時、補助参加人席に座る竜人ラドミルが、ゆっくりと巨躯を揺らして立ち上がった。


「……一点だけ、補足を」


 地鳴りのような声が法廷の空気を震わせる。


「ゴーラには、魔法の才能など微塵もありませんでした。洗脳魔法どころか、指先に小さな火を灯すことすら叶わなかった。三十年間、彼女が商売のために使い続けた唯一の技術は、そろばんと笑顔だけです」


 金色の縦瞳が、被告席の少年を静かに見下ろす。


「ゴーラ・グランは大公領の中でも、最も平凡な国民の一人でした。ただ商売が上手で、人に好かれた。——それだけの、ただの老女を、お前は殺したのだ」


 


「証人、ハンナ・メッサーシュミット。前へ」


 促され、ハンナは静かに証言台へ立った。


 数日前、外征審査局の窓口でユウキと向き合っていた時のような、春の陽光のごとき微笑みはもうない。眼鏡の奥の瞳は、凪いだ海のように静まり返っている。


「証人。あなたは犯行の数日前、被告人と接触していますね」


「はい。被告人の外征支援申請を審査し、それを受理しませんでした」


 ハンナの声は、驚くほど平坦だ。


「私は被告人に対し、魔王討伐計画が殺人予備罪に抵触する可能性を指摘しました。ゴルグ族事件の判例を引き合いに出し、法的なリスクを説明し、外交交渉という代替手段も提案しました。——行政官として、手続き通り、最善を尽くした自負があります」


 ハンナはそこで一度言葉を切り、被告席のユウキを見つめた。


「それでも、ゴーラさんは死にました」


 法廷を静寂が埋め尽くす。


「私は、書類で人を止められると信じていました。申請を不受理にし、審査でリスクを説き、合理的な代替案を示せば、理知ある人間なら踏み止まると。……ですが、被告人は合理的ではありませんでした。彼は最初から、法も手続きも届かない『妄想』の中にいた」


 ハンナの手が、証言台の縁を白くなるほど強く握る。


「書類は、妄想を止められません。裁判官殿、これは手続きの限界です。私にできることは全てやりました。……それでも、足りなかった」


 


 ゾフィーが、一枚の封筒を取り出す。


 そこには魔王軍の不吉な紋章などない。ただ、大公領の公印がひっそりと押されているだけだ。


「検察側より、被害者の自宅から押収された品を提示します。——ヴァルガス大公からの手紙です」


 ユウキが喉を鳴らす。手枷の鎖が、かちゃりと乾いた音を立てた。


「宛先はメル・グラン殿。被害者の孫であり、当時十歳の少女。差出人はヴァルガス大公。——内容は、こう記されています」


 ゾフィーは手紙を掲げ、事務的に、だが一文字ずつを刻むように読み上げる。


「『メルさま。お誕生日おめでとうございます。おばあさまから、いつも元気だと聞いています。——健やかに育ちますように。おばあさまを大切にしてください』」


 読み終えたゾフィーが、手紙をゆっくりと卓上に置く。


「『おばあさまを大切にしてください』。——この手紙が届いた二週間後、被告はこの『おばあさま』を殺害した」


 ゾフィーの視線が、ナイフのように鋭く被告席を射抜く。


「被告。お聞きします。この手紙も、あなたの言う『洗脳』ですか」


「それは……」


 ユウキが震える声で食い下がる。


「それも……それも洗脳の一環で、こうやって外堀を埋めて……!」


「十歳の少女への誕生日の手紙が洗脳だと。——被告。あなたの『洗脳』には、終わりがありますか。この世界の全ての善意が『洗脳』に見えるのですか」


 ユウキは、答えない。


 土気色の顔で、卓上の手紙を凝視したまま凍りつく。


 法廷を、ただ冷たい沈黙が支配する。


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