【8】
馬車を包む光が消えると、窓の外に古びたアパートが見えた。文化遺産に指定されてもおかしくないような、昭和のアパートだ。
「健太、降りなさい」
先に御者台から降りたモルが客室の扉の前に来て言った。
「今日は馬車で部屋に入らないの?」
「部屋が狭すぎる。コシュタ・バワーは現世の物と干渉しないと言っても、半分壁にめり込んだままってのも落ち着かないだろ?」
モルに続いて降りてきた佐藤が言った。
「なるほど」
健太は扉を開けて馬車を降り、アパートを見上げた。
「にしてもボロいアパートだな」
「獲物は二階の一番奥だからね。さ、歩いた、歩いた」
健太は鎌の柄で小突かれながら吹きさらしの階段を登った。眼下にコシュタ・バワーが見える。
同じく剥き出しの廊下を一番奥まで進み、割れかけたベニヤのドアの前に立った。
「鍵は?」
「そんなもの要らないわよ」
モルが鎌を胸の前に構えた。
「ちょっと! そんな乱暴なことマズいよ」
健太は慌ててモルとドアの間に立った。
「なに言ってるの。ドアを壊したりしないって。アタシたちは現世の物には干渉しないんだから」
「いや、モルたちはそうだろうけど、僕は通り抜けたりできないよ」
「今は死神の業務に携わってるんだから、同じように通り抜けられるから。付いてきなさい」
そう言うとモルは健太を押しのけ、ドアを向こう側に通り抜けて見えなくなった。続いて佐藤もカボチャ頭を腕の中で傾けて頷くと、ドアの向こうに消えた。
「本当かよ……」
半信半疑の健太がドアを手で触ろうとしたら、手は何の妨害も受けずにドアを突き抜けた。健太はそのまま足を踏み出して部屋の中に入った。外観に劣らず部屋の中も文化遺産級だ。ドアの前には小さな三和土があり、くたびれたスニーカーと便所にありそうなサンダルが転がっている。どちらもピンクの女物だ。その隣、廊下に面した壁沿いに、ステンレスの流しとガスコンロが載った木製の台が並んでいる。部屋の大きさは四畳半で、実際、四枚と半分の畳が敷いてある。どれもすっかり毛羽立った年季物だ。隣の部屋との境になる壁面にはふすまが二枚と、木製のドアが並んでいる。押入れとトイレだろう。そのふすまを背にモルと佐藤が立っている。二人の視線の先には、一人の女がうずくまっていた。彼女の膝の上には、コンビニのレジ袋と、場違いに鋭利なカッターナイフが置かれている。手首には、まだ浅い赤線が数本。彼女は泣いていなかった。ただテレビの砂嵐を見つめるような、虚無的な目で自分の腕を見つめている。その顔を照らしているのは液晶ディスプレイの光だ。
「兄ちゃん、その画面を見てみな」
佐藤がディスプレイを指差した。健太が覗き込んでみると、映っているのは今流行りのソーシャルネットワークサービス・ピックポックの統計画面だった。自分の投稿した動画がどれだけ見られたか、『いいね』をどれだけもらえたか、知ることができる画面だ。開いていたのは過去からの閲覧数の遷移を示したグラフだが、数ヶ月前から急激に閲覧数が減って、この二週間はほぼゼロが続いている。
「これがリストカットの原因?」
健太は振り返って佐藤に訊いた。
「そうだろうな」
「閲覧されなくなったくらいで死ぬ? そんな馬鹿な」
「その姉ちゃんにとっては、閲覧されなくなった『くらい』じゃないんだろうな」
「いやいや、どう考えても死ぬようなことじゃないでしょ」
健太と佐藤のやり取りにしびれを切らしたらしいモルが鎌をどんと床に突いた。
「そんなことはどうでもいいのよ! とっとと魂を刈り取って帰るからね! 浮いてきた魂をアタシが鎌で切り離すから、健太はどっかに飛んでかないよう、掴まえて。分かった?」
「ああ、死の恐怖がやったみたいにだね」
「そうそう。健太のくせに理解が早いじゃない」
「佐藤さん、死神の世界にはお客様相談窓口はないの? 態度が悪いって苦情を申し出たいんだけど」
「あるけど今は休業中だ」
「あるんだ……」
「昔はそんなものあったからって、死神に苦情言おうなんて奴はいなかったけど、最近の奴らはみんな怖いもの知らずだからな。カスハラまがいの苦情に担当が病んじまったんだよ」
「死神の世界も大変なんだな」
「へへえんだ。だから苦情なんて怖くないもんね!」
「お嬢、馬鹿なこと言ってる暇があったら、早く刈り取れ」
「あっ、佐藤さんまでそんな主任みたいなこと言って」
「グズグズしてるとその主任にまたどやされるぞ」
「それは困ります!」
モルはつまずきながら女に駆け寄り、その頭に触れた。
「おかしいなあ。ぜんぜん魂に触れない」
「お嬢、この姉ちゃんは死ぬ気なんかねえんじゃねえか?」
「そんなはずは……ちゃんと刈り取りリストに載ってるもの」
「見せてみろ」
佐藤がモルの手にある書類をひったくった。
「どれどれ。加藤美咲、二十三歳。地元の女子大を卒業し名古屋の出版社に就職するも、一年経たずに退職。原因はネット依存症。ピックポックの『いいね』が欲しくて夜も寝ずに投稿を続け、会社に行けなくなる。閲覧数の減少で精神的に追い詰められ、コンビニで刃物を購入。なるほど。それで自殺の可能性ありとしてリストに載ったんだな」
「ね。だから死ぬ気がないなんてことはないはずだって」
「いや、刃物を買ったからって、死ぬとは限らないんじゃないかな」
健太はモルと佐藤の会話に口を挟んだ。
「でもこうやって手首を切ってるじゃない」
モルの視線は女の手首に向けられている。
「この娘と話はできないかな」
「健太は生者だから、彼女に姿を見せて話そうと思えばできるけど、部屋にいきなり現れたら不審者だって騒がれるのがオチね」
「ううん、駄目か……」
「いや、方法はあるぞ。ちょっと待ってろ」
佐藤が部屋を出ていき、すぐ何かを持って戻ってきた。
「健太、これを着ろ。お嬢、鎌を健太に貸してやってくれ」
佐藤が広げてみせたのは、グレーのローブだった。サイズ以外はモルの着ているものと同じだ。
「死の間際に現れた死神ってことにしよう」
「そんなの信じるかな?」
「ま、信じてもらえなきゃすぐ、こっちに引き戻してやるよ」
「他にいいアイディアもないしな。やってみるか……」
健太はローブと鎌で死神の格好になった。




