【7】
健太は銀行の営業カバンを抱えながら、コートの襟をかきあわせた。温暖化が進んで暖冬ばかりになった今どきには珍しく、身体の芯から冷える寒さだ。今日の訪問ノルマを消化したらすっかり夜中になってしまった。LEDの無機質な光に照らされたアスファルトの路面を叩く革靴の音が規則正しく響く。少しでも身体を温めようとするのか、そのテンポは速い。振り返れば、つい先程までいた街のイルミネーションが瞬いているはずだ。今日はクリスマスなのだ。そんな喧騒から逃げるように歩いていた足を止め、健太は空を見上げた。
「雪か……」
この地方では何年ぶりだろうか。
「ホワイトクリスマスか。僕には関係ないけどな」
そう言った声はむしろ楽しそうだ。しばらく立ち止まって落ちてくる雪を見ていた健太だったが、急に思い立ったように脇道に折れて歩き出した。その道は湾岸に向かう道だった。やがて健太が辿り着いたのは、先月、川に飛び込もうとして立った橋の上だった。あの夜のように彼は欄干にもたれて暗い水面を覗き込んだ。
「へんな夢だったな。妙にリアルだったし。おかげで死ぬ気なんかすっかりなくなったよ」
健太はふざけて身体を欄干の外に乗り出してみた。死のうと思った気持ちが過去のものになったことを実感したかったのだ。
「健太! やっとアタシの鎌に刈り取られる気になったのね! さあ、いつでもいらっしゃい」
背後から聞き覚えのある声がした。健太は飛び上がらんばかりに驚いて後ろを振り返った。頭からすっぽりローブを被り、大きな鎌を持ったロリっ娘が立っている。
「えっ! モル? いや、そんな馬鹿な……また夢を見てるのかな?」
「兄ちゃん、紛らわしい真似はやめてくれ。お嬢が要らん期待しちまうだろ」
その声で健太は、アルスターコートの肩にシルクハットを載せ、カボチャ頭を抱えた御者もいるのに気付いた。
「佐藤さんもいる……」
健太は目をゴシゴシこすってみたが、カボチャ頭とロリっ娘は消えなかった。
「そんなマンガみたいなこと本当にする人がいるんだ」
モルが笑いながら言った。
「いやいや、マンガから出てきたみたいな死神に言われたくない!」
「なによ、元気じゃない。ちゃんと死ぬ気あるの?」
「死ぬ気なんか無い!」
「なあんだ。ガッカリです」
「飛び込むんじゃなければ、兄ちゃんはこんなところで何してるんだい?」
「何って……ただ何となく。クリぼっちを楽しんでたと言うか……」
「ちょっと、死ぬ前に頭がおかしくなっちゃったの?」
「あれから冷静に周りを見るようになったんだ。支店長がくだらない冗談を言ったとき、誰が一番早く、どんな顔をして笑うか。誰が誰を排除しようとして、どうやって嘘をつくか。群れの本能に突き動かされた連中が必死にやってることが滑稽で仕方ない。『事実』なんてどうでもいい。ネアンデルタール人が本当に悪魔かどうかなんて、彼らにはどうでもいいこと。重要なのは、リーダーの言葉に、そして隣にいる仲間の興奮に『同調』すること。それこそが、彼らにとっての絶対的な正解。ホモ・サピエンスは、個としての能力ではネアンデルタール人に劣っていた。だけど圧倒的な『同調能力』で群れになればバラバラのネアンデルタール人に勝てる。四万年経った今の人間も本質は変わっちゃいない。人間は事実よりも、いかに周囲に合わせるか、いかに敵を作って仲間と高揚感を共有するかを重視するように設計されている。そう思って見ると、人間の社会なんて、ただの不器用な動物園だなあって思えてくる。そしたら僕は群れに馴染めない遺伝子で良かったって思うようになった。『事実』を見ることができるからね」
「それでクリぼっちを楽しむってわけだな」
「そういうこと。独りを楽しめるってのはいいことだなって。待て待て、これは夢だ。夢に真面目に答えても仕方ない」
「夢じゃない! 今度はベタにほっぺたでもつねってみたら?」
モルが鎌の柄の尻で路面を叩いた。
「兄ちゃん、俺たちが夢だろうが現実世界だろうが、そんなことはどうでもいい。兄ちゃんが生きる気になったんならな」
佐藤の言葉に健太は急に気が付いたように頭を下げた。
「確かに。二人には礼を言わなきゃいけないな」
「そうよ! あの後アタシ、主任に死ぬほど怒られたんだから! 死神だから死なないけど……『有望な魂を逃がすとは何事だ』って、三時間も正座させられたんですよ、死神なのに!」
「そうだったんだ……なにか僕に出来ることはある? 刈り取られること以外で」
「それじゃ、次の仕事を手伝いなさい」
「魂を刈り取りに行くんですか?」
「そうよ。その途中で健太が川に飛び込みそうなのが見えたから、寄ってみただけよ。せっかく仕事ができると思ったのに、無駄足踏ませて!」
「また死ぬ気になったんじゃないかって、お嬢が心配してな」
「佐藤さん! 余計なことは言わなくていいの!」
「モル、ありがとう。僕は大丈夫だよ」
「心配なんかしてません! 早く馬車に乗りなさい!」
そう言って歩き出したモルの行く先には、骸骨の馬が引くタール塗りの黒い馬車が停まっている。
健太はもう驚かなかった。健太は何のためらいもなく客室の扉を開けて乗り込んだ。シートの硬さもあの時のままだ。あの時は気づかなかったが、こんな硬いシートなのに座ると心地よく沈み込むのは、やはりこの世のものではないからなのだろう。すぐに馬車は走り出し、光の奔流に包まれた。




