【6】
佐藤との会話に気を取られているうちに、馬車は最初の橋の上に戻ってきた。時刻も真夜中に戻っている。
健太は馬車から降りて欄干に寄りかかり、真っ暗な川面を覗き込んだ。
「佐藤さん、僕は世の中が正しく動いていると思っていた。正確には正しく動くべきだと思っていた。それが僕の思う世の中の仕組みだった」
健太は背後に二人の立つ気配を感じて、背中越しに話し始めた。
「うん、それで?」
「物事は事実に基づいて判断され、同じ条件なら身内かそうでないかで対応は変わらない。結果を出した者は評価される」
「そうじゃないの?」
意外なことを聞いたというニュアンスが、モルの声には含まれている。
「そうじゃなかった」
健太はなんの感情もこもらない調子で言った。
「そんな世の中、間違ってるよ」
少し興奮してモルが言った。
「うん、僕もそう思ってた」
「異世界に転生すれば兄ちゃんが正しいと思う世界か待っているはずだ、ってわけだな」
「はい。いや、本気でそう思ってたわけじゃないですけど、そんなふうに思わなきゃ、やってられなかったんですよ」
「ずっと生きにくかったんだな」
「生きにくかった? ああ、そうか。うん。そうです。生きにくかった」
「頑張っても上手くいかないことばかりで。だが他の奴等は楽々生きてる。皆が普通に出来ることが出来ない自分は駄目な人間なんだ。でも、そんなことは認めたくない。そんなはずはない。だったら世界が間違ってるんだ」
「佐藤さん、なんでそんなに僕の気持ちが分かるんですか?」
「俺も同じだったからな。どうも色んなことが上手くいかない。俺がこうなると思うように世界は回らない。論理的に考えればこうするべきだと分かるはずなのに、みんな不合理な行動ばかりしやがる」
「人間って大変なんだね……」
モルのため息が聞こえた。
「いや、こんな生きづらさを抱えている人間は多くない」
佐藤の声が少しくぐもった。カボチャをモルのほうへ向けたのだろう。
「どういうこと? 二人は特別なの?」
「特別ってのは正しくない。だが、少数派であることは間違いないな」
健太は欄干から身を起こして佐藤のほうを振り返った。
「多数派は僕らと何が違うんですか?」
「遺伝子に組み込まれた生存戦略が違うんだよ」
「なんなの、それ?」
モルが、「このおっさんなに言ってんの?」とでも言いたげな顔で訊いた。
「多数派にとってなによりも大事なのは、群れの一員でいることなんだ。彼らにとって、群れから追い出されることは死ぬのと同じなんだ」
「それを言ったら、僕だって一人では生きていけないと思いますよ」
「それは頭で考えれば、ということだろう?」
「頭で考えればって、頭以外のどこで考えるの?」
モルが素っ頓狂な声を出した。
「兄ちゃん、これまで死にそうな目にあったことは?」
「クルマで事故ったことがあります」
「恐怖を感じたか?」
「それはもちろん」
「多数派はな、群れからはぐれることに、それと同じ恐怖を感じるんだ」
「本当ですか?」
「兄ちゃんには分かんねえだろ? 実は俺にも分かんねえ。俺なんかは食うために仕方なく社会に関わってたけどよ、どうも奴らはそうじゃないらしいんだな。社会と関わるのが喜びだっていうんだ。まったく俺の理解の及ばねえ世界だ」
「あっ! そうだったのか!」
「心当たりあるだろ?」
「あります、あります。なんで皆いつもあんなにつるんでるんだろうって思ってました。いくら職場のコミュニケーションが大事だからって、よく皆あんな我慢して一緒にいられるなって思ってましたけど……」
「そうだ。あいつらはそうするのが嬉しいんだよ」
「パンデミックで学校に行けず、友達に会えなくなって精神が不安定になるなんてのも、僕にはまったく理解出来ませんでしたよ」
「俺もだ。それで分かるだろう? 奴らは頭で考えて群れてるわけじゃないんだ。そういうふうに本能に組み込まれてるのさ」
「そんな……動物じゃないんだから、本能のままに生きてるなんて」
モルが口を挟んだ。
「なに言ってんだ。人間だってただの動物だ。基本は本能に従って生きてる。群れを維持し、群れから追い出されないようにするためなら平気で嘘もつくし、群れに属さない者に酷いことをしても良心の痛みなど感じない。彼らにとって誠実だの良心だのというのは、群れの中に対してだけ働くものなのだ」
「ネアンデルタール人を襲った奴らのようにですね」
「そういうことだ。あれだって彼らのナラティブでは正義の戦いであり、悪は必ず滅ぶというストーリーでしかないんだ。仲間を大切にするとか尊いことのように言うが、それは仲間以外は大事にしないことの裏返しに過ぎない。結局自分の属する集団に資する、ひいては自分の生存に有利になるってだけの話だ」
「もしそれが人間の本能なら、佐藤さんや健太はどうしてそれに馴染めないの?」
モルの問いに佐藤は、ウーンと考えるようにカボチャの頭を上に向けた。佐藤に代わって健太が答えた。
「群れで生きないほうが有利な場合もあったんじゃないかな。例えば、色んな場所を旅して交易するなら、特定の群れのためでなく、いろんな群れの人と付き合っていかなきゃならない。そこに必要なのは仲間意識じゃなくて、論理に裏付けられた交渉だから」
「ああ、そういう考え方もあるよな。だが、単なる歩留まりの問題かも知れねえぜ」
カボチャを持ち直した佐藤が言った。
「歩留まり?」
「特に理由なんかなくても、遺伝子の組み合わせによって一定の割合でそんな人間が生まれてきちまうだけかも知んねえだろ?」
「歪んだカボチャみたいに?」
モルが佐藤の頭をなでた。
「おいおい、俺の頭は歪んじゃいねえけど、まあ、そんなとこだな。で、兄ちゃんはどうする? そんな人間の世界に絶望してやっぱり川に飛び込むか?」
佐藤の問いかけに健太はまた欄干にもたれかかって下を覗き込んだ。
「まだよく分からないこともあるけど。世界は正しくなんて動いてないってことを受け入れないと、幸せになんかなれないんだなって。所詮は動物である人間が生き延びるために獲得した本能にしたがって、この社会は出来てるんだなって。僕が生きにくいのはその本能が薄いからで、それに何かの意味があるのか、ただの偶然なのかは分からないけど、少なくとも僕が悪かったり駄目だったりするせいじゃないんだなってこと。そういったことをもう少し考えてみようと思います」
「佐藤さん! だから言ったじゃない! 今日も手ぶらで帰ることになっちゃって。怒られるのはアタシなんですからね!」
モルがカボチャを小突いた。
「そうか。僕が死なないとモルが怒られるのか。やっぱり飛び込んだほうがいいのかな」
「馬鹿言わないで! 獲物に同情されたなんて末代までの恥さらしよ! もういいから、とっとと帰んなさい!」
「うん。モル、佐藤さん、ありがとう。さようなら」
健太は踵を返すと、振り返らずに橋を渡って闇の中に消えた。
「佐藤さん、健太はもう大丈夫なの?」
「分からん。人間てのは理不尽な世界を作るくせに、理不尽な目にあうのを受け入れられないからな」
「じゃあ、また来るかな?」
「絶対ないとは言わんが、なんとかやってくんじゃないか?」
「アタシもそう思う……んだけど、なんかこのままサヨナラにならない気がすんのよね」
「実は俺もだ」
「うーん、何なんだろう? って、そんなこと言ってる場合じゃない。主任への言い訳、考えなきゃ……」
白みかけた空に馬車は溶けていった。




