【16】
健太は床に転がっている空の薬瓶を指先で軽く弾いた。
「支店長がさ、来週の全店会議で自分が目立つための資料を作れって言うんだ。いかに有望な融資先が多いかを書き連ねてね。それは嘘じゃないけど、そんなことアピールするよりも、上手く行ってない案件についてちゃんと議論すべきだよな。上手く行ってるものは放っておいたっていいんだから。見栄えのいい話ばかり書き連ねてさ、仲間内ですごいすごいなんて盛り上がってどうすんだって話だよ。でも世の中はそうやって回ってるらしいんだよ。いや、そういう人間たちが回してるんだよ」
健太を見る真司の目に光が宿ってきた。手近にあったタオルで口元を拭ってから彼は話し始めた。
「今のお客さんは、自分たちの課題をはっきり分かってる。だから自分たちに必要なシステムがなにかも明確になってる。俺らはそれを実現するためにいるはずなんだ。それなのに俺の会社のプロマネ、ああ、プロジェクトマネージャーのことだけど、はメタバースだのAIだのを導入したがるんだ。そんなもの今の自分たちには必要ないとお客さんは分かってるし、俺から見てもそんなものは必要ない。でもプロマネにはいいシステムを作ることより画期的なシステムを作って賞賛をあびることのほうが大事なんだ」
「それで客さんを騙す資料を作ってたのか?」
「お客さん? いや、どっちかって言うと社内向けだな。社内にアピールしてリソースを確保しようって腹だよ。大きなチームのリーダーになりたいんだろうよ」
「なるほどね。でもお客さんはそんなもの必要ないと分かってるんだろ?」
「現場はね。でもプロマネは相手のシステム部長宛てにプレゼンする気なんだ。社内でリソースをかき集めて派手な体制図を作ってね」
「現場なんて相手にしちゃいないんだな」
健太の言葉に佐藤が腕の中のカボチャをポンと叩いた。
「主任みたいだな。エリートはみんな一緒だ」
「プロマネがエリート? とんでもない。高校中退のヤンキー崩れで、親父が社長の知り合いだってんで会社に入れてもらったんだよ」
「そっから出世したなら大したもんじゃねえか」
「悪どいこといっぱいしてね。まあ、コネに物言わせたわけじゃないのは認めるけど」
「ううん、そんな経歴だから余計必死だったんだろうな」
健太がうなずきながら言った。
「だからって、役に立たないと分かってるものを売りつけるなんて許されないよ」
真司がキッと健太を睨みつけた。
「あ、いや、許されるとは言ってないよ」
「ううん……」
唸り声を上げたのはモルだ。
「だからって死ぬ?」
真司が床に散らばったままの錠剤を見た。
「楽になりたかったんだ」
「そんなに仕事ハードだったの?」
モルは死神らしからぬ心配顔だ。
「いや。もっとハードなことはこれまでいくらでもあったさ。忙しいこと自体はいいんだ」
「じゃあ何がそんなに嫌だったの?」
モルは不思議そうな顔をしている。
「意味があると思えないことに自分のリソースを使うことがだよ」
「意味があることならハードでもいいの?」
「もちろん」
「なんで? 意味があろうがなかろうが、ハードなものはハードなんじゃないの?」
モルの真っ直ぐな疑問に真司が口ごもった。健太も改めて問われて答えを思いつかなかった。黙り込んだ二人に代わって口を開いたのは佐藤だった。
「人間の脳に森羅万象のことを処理するようなキャパシティはない。だから脳は常にリソースを節約しようとする。人間が面倒くさがりなのは進化の結果だ。生存のために本当に必要なことだけに集中するための仕組みなんだ」
「そうか。『意味がない』って感じるってことは、脳はそれが生存に不可欠なことだと認識してないんだな」
佐藤の言葉を引き取って健太が言った。佐藤が手に持ったカボチャをうなずかせてさらに続けた。
「そういうことだ。本能は扁桃体の快不快原則を通して人の行動を左右する。生存に必要と思えないことにリソースを割くと、嫌悪感を覚えるようになってるのさ」
「だったらやっぱり……」
真司が苦しそうな顔になった。
健太、モル、佐藤の三人は黙って次の言葉を待った。少しの間があってまた真司が口を開いた。
「チームの他の連中は意味のないことだと分かってるはずなのに、俺ほど嫌がらずに資料作りに励んでる。仕事だから、自分のしたいことだけやってりゃいいわけじゃないことくらい、俺だって分かってる。きっと皆は意味のないことにリソースを割く嫌悪感に耐えて求められたことをやる精神力があるんだ。その力のない俺はやっぱり駄目な人間なんだ」
佐藤がまた抱えたカボチャをポンと叩いた。
「兄ちゃんが死のうとしたのはそれが原因だな。俺なんか駄目な人間だ、生きてる価値なんてない。だから死のう。違うか?」
言われて真司はそれまでうつむき加減だった顔を上げた。
「あんた、なんでも分かるんだな」
「自分だけが特別だなんて思いなさんなよ。おんなじ悩みを抱えた奴なんていくらでもいるのさ」
佐藤は健太を指差した。
「この兄ちゃんも同じだったのさ。銀行で出世できなくて、俺は駄目な人間だってな。それで橋から飛び降りようとしてたってわけだ」
「あ、うん。まあ、そういうこと」
健太は頭を掻いた。
「今はもう死のうと思ってないのか?」
真司が真剣な眼差しで健太に訊いた。
「モルには悪いけど、今はまったく死ぬ気ないな」
健太がモルを見ると、彼女はプイと目をそらせた。
「どうして死のうと思わなくなったんだ?」
真司の目は切実だった。
「みんなの精神力が強いわけじゃないって分かったからさ」
「どういうことだ?」
「『意味のないこと』に一生懸命になろうと思ったら忍耐がいると思うよ。でもそれを『意味のあること』と思ってるとしたら?」
「えっ?」
真司が目を見開いた。佐藤は「うんうん」とばかりにカボチャを振っている。モルは「またか」と言わんばかりの呆れ顔だ。
「僕も最近まで分からなかったんだけど、どうやらこの世界の人間の多数派と僕らは生きてる原理がまったく違うみたいなんだよ」
「何を言ってる?」
真司が胡散臭そうな顔をした。
「多数派の人間にとって何よりも大切なこと、それは群れの一員でいること。群れから追い出されないこと」
胡散臭そうな顔をしたばかりの真司の顔が、ハッと気づいたときの表情に変わった。
「思い当たるんだね?」
健太の言葉に真司はうなずいた。
「言ってることは分かる気がする。でもなんで俺やアンタは違うんだ?」
「生まれつきさ」
答えたのは佐藤だった。
「生まれつき?」
「そうさ。生まれつきさ。誰のせいでもない。育ち方のせいでもない。たまたまそういうふうに生まれついた。それだけだ」
「そんな……たまたまの生まれつきでこんなに苦しむのか?」
「そうだ」
「そんな理不尽な!」
「理不尽だな。でもそれが世界の真実だ」
佐藤の容赦ない言葉に真司ががっくり肩を落とした。




