【15】
健太の職場である支店の壁に貼り出された営業成績のグラフ。昔は個人別になっていたらしいが、過度な競争が不正を呼ぶという批判を受けて、今はセグメント毎の棒になっている。その上に掛かっているアナログ時計は、もうすぐ今日が終わる時刻であることを示していた。
「やっと終わったあ」
健太はオフィスチェアの上でのけぞった。バネで支えられた背もたれは健太の上半身を約四十五度まで傾けて止まる。さらに首を反らせて伸びをした健太は、上下逆さまになった背中側の窓の外に、今やお馴染みの物を見た。それは窓を通り抜けて建物の中に入ってきた。
「よう兄ちゃん。まだ仕事か? 精が出るな」
御者台の佐藤が言った。
「来週の全店会議の説明資料を作ってたんですよ」
健太は驚きもせずに応えた。
「兄ちゃんの晴れ舞台ってわけだ」
「説明者は支店長ですよ」
「でも大事な資料なんだろう?」
「支店長にとってはね。奴の手柄をアピールするためのものさ」
「なるほど。そりゃウンザリだな」
「まったく。ま、支店長も群れの本能に突き動かされて必死なんだなと思えば、怒りも収まりますけどね」
「そうかい。そりゃ良かった」
「で、今度はなんですか?」
「お嬢! 居眠りしてる場合じゃないだろ」
健太はあえて口に出さなかったが、モルはさっきから御者台で佐藤に寄りかかって眠りこけていた。佐藤が小さな身体を揺すった。
「ううん。もう話は終わったの?」
寝ぼけまなこのモルが訊いた。
「ちゃんと死神様から話せ」
「だって佐藤さんも健太も、アタシ抜きで上手くやれちゃうでしょ」
そういうモルに拗ねている様子はなく、心からそう思っているようだ。
「おいおい。俺はお嬢を獲物のところに連れて行くことはできるが、刈り取ることはできないんだぞ。いつも言ってるだろ。俺はお嬢あっての俺なんだと」
「アタシがやると刈り取らなきゃいけなくなっちゃうから……」
「おいおい……」
「あっ、今のは失言。忘れて! 主任には絶対に言わないで!」
鎌を脇に挟んで両手を合わせ佐藤に懇願したモルだったが、健太が見ているのに気付いて急に強面を作った。
「健太、これから仕事だから付いてきなさい」
モルが鎌で後ろの客室を指し示した。乗れということだろう。
「僕はいま仕事が終わったところだぞ」
「そんなくだらない資料作りを仕事とは言わないの」
「モル! そんなことは……僕が一番分かってる」
「はい、乗った乗った」
健太を乗せた馬車が夜の街へ飛び出していった。
市の中心から少し外れた鉄筋四階建てのアパート。この辺りでは比較的新しく、優良物件と言ってよい。その二階の殺風景な一室で一人の青年が、皿に盛られた錠剤の山を見つめている。床には空の薬瓶が転がっていて、そのラベルにはよく知られた睡眠薬の商品名が記されている。
「俺は良いプログラムを作りたいんだ。仕様をきっちり満たした綺麗なコードが書きたいだけなんだ。それが俺の本当の仕事のはずだ。金を払ってくれる客を満足させれば誰にも文句言われないはずじゃないか。それなのに、やってる仕事のほとんどは社内向けの資料作りばかりじゃないか。それで生産性が低いとか言いやがって! こんな世界、間違ってる!」
青年は叫ぶと皿の上の錠剤を鷲掴みにした。指の間からこぼれ落ちるのも構わず、掌に残った塊を口に放り込み、ガリガリと噛み砕いて飲み下した。
「ゲホッ、ゲホッ」
青年の胃は敏感に危険を察知して受け入れを拒否した。
「兄ちゃんよ。今の睡眠薬は簡単に死ねないように作ってある。致死量を一気になんて飲めるもんじゃないぜ」
薬を全て吐き出した青年の背後から低い声がした。青年は四つん這いの姿勢のまま後ろを振り返った。肩にシルクハットを載せ、カボチャのランタンを抱えたアルスターコートの男と、いかにも銀行員といった風情の背広姿の青年と、グレーのローブを頭から被り、自分の身体より大きな鎌を抱えた幼女が並んで立っていた。
「彼が今夜の獲物なの?」
佐藤が青年に話しかけている横で、健太はそっとモルに訊いた。
「うん。栗山真司、二十七歳。プログラマーだって。なんだか誰かと似たようなこと言ってるね」
「耳が痛い……」
「きっと健太の同類ね」
「うん、そう思う。コンピューターのことなんて分からないけど、彼の言うことはなんとなく分かるよ。僕だって融資先のために時間を使いたいけど、支店長の自己満足のための資料とかばかりに手がかかってるからね」
「佐藤さんに言わせれば『群れの本能』の犠牲者ね」
「ああ。彼らに悪気はないんだ。彼らも気の毒といえば気の毒なんだよな」
「アンタの可愛い彼女みたいに、それで苦しむ人もいるわけだしね」
「あ……うん……まあ……」
「おい、お嬢とそっちの兄ちゃん! 仕事中に何くっちゃべってる?」
見ると、佐藤が明らかにイライラを表す人差し指でカボチャをトントンと叩いている。
「これからの段取りを打ち合わせてたのよ!」
モルが小さな胸を反らせて答えた。佐藤が納得したようには見えなかったが、モルは無視して真司の前に進み出た。
「何をためらっているか。お前の運命は決まっているのだ。速やかにこの鎌に刈り取られよ。首を出せ」
「俺はためらってないよ。このカボチャ頭も言ってたけど、睡眠薬じゃ簡単に死ねないみたいだ」
真司が動じることなく反論した。健太は自分も最初にモルを見たとき動じたりしなかったなと思い出した。動かないはずのカボチャの顔が呆れたように見えるのも、あの時と同じようにきっと健太の気のせいだろう。モルの取って付けた威厳はすぐに崩れ去った。
「うっ……それはその……とりあえず決まり文句を言っただけで、そんなことはもちろん分かってるわよ!」
仕方なく健太が代わりに真司の相手をすることにした。
「どこの世界も同じだな。僕もついさっきまでくだらない資料を作ってたよ」
「死神の世界で?」
真司が不審を現した。
「いや、死神は副業で、本業は銀行員なんだ」
「な、何それ?」
「ほんと、何それだよな。どうしてこうなったのか、僕にもよく分からない。ま、それは置いといて、君の話を聞こうじゃないか」
健太は真司の前に腰を下ろした。




