【10】
融資先に向かう電車の中。健太はスマホの画面に見入っていた。もちろんMISAKIチャンネルだ。ポロポロメリーを真似た騒々しい動画はなくなり、昔のように緩さの中にユーモアが滲み出るような、健太の好きなタイプのものがまたアップされるようになっていた。
「やっぱり美咲さんはこうでなきゃな。閲覧数も少しずつ戻ってきてるみたいだし。本当に良かった」
健太の頬が緩んだのは動画の面白さのせいだけではなかった。やがて電車は目的の駅に着き、健太はスマホを膝に載せた営業カバンに突っ込んで立ち上がった。
今日の訪問先は小さなデザイン事務所だ。融資額自体は大したことないが、長年の得意先だ。折を見て顔を見せる程度だが、健太が新人のときから訪問は続けていた。
「こんにちは。お世話になってます、田所です」
カラリンコンと鐘の鳴るドアを開けて健太が中に声をかけた。
「やあ、田所さん。お世話になってます」
所長の加藤がいつもの笑顔で出迎えた。
「今日もコーヒーをいただきに参りました」
顔つなぎの訪問なので、たいていは茶飲み話をして帰るだけだ。それでも加藤は田所の訪問を喜んでくれる。
「待ってましたよ。さあどうぞどうぞ」
健太は加藤に促されて事務所に入り、応接セットのソファに腰を下ろした。低反発素材でできたソファは柔らかくないのに腰がしっかり沈み込み、少しコシュタ・バワーの座席を思わせた。加藤も健太の向かいに座った。
「田所さん、ゲイシャなんて飲んだことありますか?」
所長の加藤は無類のコーヒー好きで、いつも珍しい豆をご馳走してくれる。
「ゲイシャですか? いやいや、そんな高級なもの、拝んだことすらありませんよ」
「それは良かった。自慢のし甲斐があるってもんです」
「そんないい物をいただいていいんですか?」
「自分だけで飲んだってつまらんじゃないですか」
「そうですか。ではいただきましょう」
「そういうところなんですよ、私が田所さんを好きなのは」
「えっ? どういうことですか?」
「必要以上に遠慮しないところです」
「それって厚かましいってことじゃないですか」
「いやいや。ここは京都じゃないんだから、勧められて受け取るのは厚かましい、なんて言いませんよ。好意はちゃんと受けるのも礼儀です」
「ううん、褒められてるのか分かりませんが。あっ、どっちにしてもゲイシャはいただきますよ」
「ちょっとお待ちを」
加藤が椅子から立ち上がり、隣の部屋に引っ込んだ。いつも加藤自ら淹れてくれるので、今もそうだろうと健太は思った。しかし今日の加藤はすぐに戻ってきた。
「あれ、コーヒーを淹れに行ったんじゃないんですか?」
「私の弟子に淹れさせようと思いましてね」
「弟子?」
「ええ。兄貴の娘がウチでアルバイトすることになりまして。まだほとんど仕事は出来ませんけど、子供のときから仕込んだおかげでドリップは僕より上手いくらいです」
「それは楽しみです」
やがて花のような香りが漂ってきた。
「これコーヒーの香りですか?」
「そうです。これがゲイシャです。おおい美咲! カップは棚の一番上にあるセットを使ってくれ」
加藤は健太に答えたのに続けて、椅子から振り返って隣の部屋に言った。
「姪御さんは美咲さんて言うんですか?」
「ええ」
健太は驚きが顔に出ないようこらえるのに苦労した。加藤の兄の娘なら同じ加藤だろう。だとすれば姪の名前は加藤美咲。そんなに珍しい名前でもないから、同姓同名の可能性だって低くはないが……
「お待たせしました」
すぐに隣の部屋からカップを二つ載せたトレイを持った娘が入ってきた。間違いなく美咲の声だ。健太は慌てて顔を伏せた。
「田所さん、どうかしましたか?」
加藤が訝る調子で訊いた。
「あ、なんだかゴミが目に入ったみたいで」
健太は下を向いたまま目をパチパチさせた。
「あの、アルコール脱脂綿かなにかお持ちしましょうか?」
美咲がトレイをテーブルの上に置きながら言った。
「あ、いえ、もう大丈夫です」
「よかった。さあ、温度が変わらないうちにまず飲んでみてください」
コーヒーは温度によって味が変わる。その変化を味わうのもコーヒーの楽しみの一つだ。加藤の勧めを無視してうつむき続けるわけにもいかず、健太は覚悟を決めて顔をあげた。すぐに美咲と目が合った。健太は表情が変わらないよう頬に力を入れた。だが美咲は驚きを隠さなかった。
「死神さん……?」
美咲は呆然と健太の顔を見つめたまま動かなくなった。
「おい美咲、人を死神呼ばわりする奴があるか。田所さん、すみません。こいつ、ついこの間までちょっとメンタルがおかしくなってて。失礼を許してやってください」
加藤が必死に取り繕ったが、美咲は健太の顔から目を離さない。
「ああ、前にもそんなこと言われたことがあるんですよ。映画かなにかで僕に似た俳優が死神を演じたことでもあるんですかね。あはははは」
健太の声を聞いてさらに疑問を深めたように見えた美咲だったが、やがて我に返ったように動き出した。
「ごめんなさい。とっさにローブを被った貴方の姿が頭に思い浮かんだものですから。たぶん映画かテレビで見たんでしょうね。失礼いたしました」
「いえいえ。きっと二枚目の俳優が演じていたんでしょうね」
健太のベタなギャグに美咲がころころと笑った。MISAKIチャンネルでいつも聞く笑い声だ。
「ええ。とてもイケメンの俳優だと思います」
二人の様子を見ていた加藤が美咲に言った。
「美咲のことだから、ちゃっかり自分の分も淹れたんだろ? それ持ってこっちにおいで」
加藤に言われて美咲は隣の部屋に行き、カップを持って戻ると健太の隣に座った。
「こいつね、ピックポックとかマイチューブとかに動画を投稿してるんですよ」
「MISAKIチャンネルですよね」
健太は言ってからしまったと思ったが、遅かった。
「顔出ししてないのに何で分かるんですか?」
「えっ? いや声で分かりますよ。名前も美咲だし」
「ああ、そうか。そうですよね」
「ええ。最近また緩さが戻ってきて、いい感じになったと思いますよ」
「ありがとうございます。ある人が教えてくれたんです。ポロポロメリーの真似なんかしてないときのほうが好きだって。私の動画が好きで、全部見てるし、アップされたらすぐチェックするって。ほとんど誰も見てくれてない最近の動画も全部知ってて。ああ、本当に見てくれてるんだなって思った。他の誰が見てくれなくてもいい、この人が喜んでくれたら。この人のためだけに動画をアップしようって。そしたら急に心が軽くなって」
確かめるように健太の目をじっと見つめたまま美咲が言った。健太は心臓が羽ばたいてモルに刈り取られるんじゃないかと思った。美咲が疑っているのが明らかだからというだけでなく、健太を見つめる美咲があまりに魅力的だったからだ。健太は美咲と見つめ合ったまま、時が止まったように感じた。
「健太! 大変!」
空から少女の声がした。とっさに健太が見上げると、天井を突き抜けてモルが落ちてきた。
美咲と加藤は固まったまま動かない。本当に時間が止まっていた。




