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【11】

「痛たたたっ」

 事務所の床に叩きつけられたモルが腰をさすりながら立ち上がり、応接セットのテーブルによじ登った。

「健太! 大変なの、本当に大変なのっ!」

 テーブルの上に立ったモルが健太のネクタイを掴んで激しく揺さぶった。

「ちょ、ちょっと待てモル! こんなところで……」

 健太は慌てて周囲を見回したが、テーブルの向こうの加藤はカップを口に運ぼうとした格好で固まり、目の前の美咲は潤んだ瞳で健太を見つめたまま睫毛一つ動かさない。窓の外を横切るカラスまでもが、羽を広げた形で空中に固定されていた。

「大丈夫! アタシが無理やり介入して時間が止まってるから、現世の人間にはまったく感知されないよ。でもそんなことよりあれ!」

 モルが指差したのは作業部屋との境のドアだ。健太がそちらを見ると、ドアが音もなくゆっくり開いた。その向こうに現れたのは、月光を思わせる長いストレートの銀髪とルビーのような赤い瞳を持つ少女。身に纏っているのは、幾重にもフリルが重ねられた、漆黒のゴシックロリータ服だ。右手にはホログラム表示のタブレット、左手にはモルのと同じ鎌を持っている。

挿絵(By みてみん)

「モル先輩。現場での職務怠慢、およびエネルギーの私的流用を確認いたしました。これは重大な規約違反ですよ」

 その声は、鈴の音のように可憐だが、同時に氷のように冷たく、脳に直接響くような無機質なものだった。モルが健太の背中に隠れるようにして身を縮めた。健太は後ろを振り返って訊いた。

「モル、あれは?」

「主任よ」

「あれが主任?」

 コソコソと話す二人に冷ややかな視線を向けながら主任が応接室に入ってきた。

「あなたが田所健太ね。本来ならあなたも刈り取るところだけど、何故か『助手』として登録されているから私には手が出せません。安心なさい。今日の獲物はその女です」

 主任は美咲に視線を移した。

「加藤美咲。一度はリストに載り、我々のリソースを消費させた個体。モル先輩の無能ゆえに放置されていますが、判定会議の結果、この個体は『将来的な再発コストが高い』と判断されました。よって、私が今この場で強制執行いたします」

 主任が手に持った鎌を振り上げた。

「待て! そんな勝手なことが……!」

 健太が椅子を蹴って立ち上がった。

「勝手ではありません。人には定められた運命というものがあります。私情でそれを歪めることこそ、勝手な振る舞いと言えます。銀行員のあなたなら分かるはずです。私情で返済を猶予していたら銀行の経営は成り立ちません」

「やめろ! 彼女は最初から死ぬ気なんてなかったんだ。そもそもリストに載ったのが何かの間違いだ」

「間違いであろうと、死ぬ運命に変わりはありません」

「間違いで殺されてたまるか!」

「そんなことはいくらでもあることです。さあ退きなさい。さもないと公務執行妨害で冥界の鬼兵を呼びますよ」

 主任が鎌を頭上にかざしたまま美咲のほうに一歩踏み出した。その瞬間、背後から低い声が響いた。

「主任さんよ。現場を疎かにするのがエリートの流儀か?」

 事務所の入り口、いつの間にか立っていた佐藤が、腕の中のカボチャをクイクイと動かした。

「佐藤さん……あなたの役目は馬車を操ること。執行について口出ししないでください」

「俺の主人と助手の仕事に横槍入れられてんだ。黙ってるわけにはいかんだろうが。それ以上ゴリ押しするってんなら、俺が相手になるから覚悟しろよ」

 佐藤の体から、夜の闇を凝縮したような威圧感が放たれた。その瞬間、少女の赤い瞳が大きく見開かれた。そこに現れているのは明らかに恐怖だ。彼女が手にしているタブレットの画面がノイズのように激しく乱れた。主任は鎌を床に下ろし、タブレットの表面に指を滑らせた。

「あなたを敵にするほど私は愚かじゃありません。分かりました。今日のところは引き上げます。ですが私の一存で組織の決定を覆すわけにはいきません。この女が『生きたい』と強く願うようになって、今後少なくとも自殺者候補リストに載る可能性はないと確認できない限り、私はまたやってきます。猶予は一週間です。これが私にできる精一杯だということは佐藤さんにもお分かりでしょう?」

「ああ。無理言ってすまねえな。ありがとよ」

 佐藤の言葉に主任は深く頭を下げてから、鎌を拾い上げた。そしてくるりと踵を返し、作業部屋の奥に歩いていきながら、空気に溶けるように姿を消した。後からゆっくり境のドアが閉まった。

「佐藤さん、前から思ってたけど、やっぱりただの運転手じゃないんでしょ?」

 健太の後ろから出てきたモルがカボチャ頭に向かって言った。

「お嬢、あれはハッタリだ。俺はただの御者だよ。さあ、俺たちも引き上げよう」

 納得したようには見えなかったが、それでもモルは黙ってうなずいた。

「ちょっ。待って!」

 健太は慌てて二人を引き止めた。

「なに? どうやったら美咲さんが生きたいと強く思うようになるかなんて、アタシには分からないからね。そんなの自分の首を締めるだけだもん」

「兄ちゃん、俺にも分かんねえな。生きてたときから、あんまし生きてたいとは思ってなかったし、そもそも今じゃ生きてもいないしな」

「そんな……」

「その女の死ぬ気を削いだのは健太なんだから、アンタがなんとかしなさい。じゃあね」

 モルが鎌を振ったと思ったら、二人の姿は消えていた。健太が部屋を見渡すと、モルがぶち抜いたはずの天井の穴は無く、破片で覆われていたテーブルや床も綺麗なままだ。窓の外のカラスが羽ばたいて飛び去った。


「うん、美咲に淹れさせたのは正解だった。私はどうしてもじっくり淹れてしまって、スペシャルティコーヒーの良さを殺してしまうからな」

 加藤の声に健太は窓から視線を戻した。

「あれっ? 田所さん、いつの間に立ったんですか?」

 ソファに座る美咲が驚いた顔で健太を見上げている。その表情は驚きから徐々に確信へ変わった。

「やっぱりあなたは普通の人間じゃないんでしょ?」

「いや……それは……そんなことより美咲さん、明日はお暇ですか?」

 健太は我ながら唐突だと思いながら、言わずにいられなかった。それでも美咲は不審がることなく頷いた。加藤がニヤついた目で健太と美咲を見比べている。

「あの……その……もし良かったら……」

 美咲がまた頷いた。

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