9話 殿
血走った無数の目が、こちらを向いていた。
一瞬、誰も動かなかった。
俺が叫んだ。
「逃げろ!」
百人が一斉に走り出した。稜線を駆け下り、来た道を戻る。足音が重なって地響きのようになった。
背後から声が上がった。
唱え声ではなかった。雄叫びだった。
振り返ると、数千の信徒が稜線を越えてこちらに向かってきていた。走っていた。全員が同じ顔をして、同じ速さで走っていた。
まずい。追いつかれる。
俺は立ち止まった。
「隊長!」
ボクシが叫んだ。
「お前たちは逃げろ!俺が時間を稼ぐ!」
「馬鹿なことを言うな!」
「行け!」
ボクシが顔を歪めた。だが走り続けた。他の兵たちも走った。
俺は棍棒を構えた。
尋常でない大きさの棍棒だ。百人将になった時に選んだ。持てる者がいなかった。俺にはちょうど良かった。
信徒たちが迫ってくる。
その時、隣に人の気配がした。
ドウサイだった。
巨大な斧を肩に担いでいた。
「何やってんだお前」
「見ての通りだ」
「逃げろと言った」
「聞こえなかった」
嘘だった。だが今は言い合っている場合ではなかった。
信徒たちが到達した。
棍棒を振った。
五人、六人が吹き飛んだ。地面に叩きつけられる。
だが起き上がってきた。
顔に血が滲んでいた。骨が折れているかもしれない。それでも立ち上がって、また向かってきた。
「死を恐れない、か」
ドウサイが呟いた。
斧を振った。信徒が崩れる。また立ち上がる。
四方から囲まれた。百人、二百人——数が増えていく。
俺は棍棒を振り続けた。腕が熱かった。魔力が流れているのが分かった。だが追いつかない。倒しても倒しても、また来る。
ドウサイが斧を地面に突き立てた。
どん、という重い音がした。
地面に亀裂が走った。亀裂は広がり、枝分かれし、その上に立っていた信徒たちの足元を崩した。十人、二十人が倒れた。地面に飲み込まれるように崩れて、立ち上がれなかった。
「土魔法か」
俺は呟いた。
じりじりと囲みが狭まってきた。ドウサイも息が上がっていた。
その時、声が聞こえた。
「反転!囲みの薄い場所を狙え!」
ボクシの声だった。
振り返ると、ボクシが兵たちを率いてこちらに向かってきていた。逃げた者たちが全員戻っていた。
「馬鹿野郎、逃げろと言っただろ!」
「お前こそ馬鹿だ!お前は死なせたくない!」
ボクシが囲みの薄い一点を指差した。
「そこを割れ!」
兵たちが一斉に突っ込んだ。囲みが割れた。ボクシがユウたちに辿り着いた。
「聞け!五人一組で動け!一人が攻めたら四人が守れ!バラバラに動くな!」
兵たちが散らばりながら固まった。五人、五人、五人——組が次々と作られた。
空気が変わった。
さっきまでの混乱が消えた。
俺は息を吹き返した。
棍棒を両手で握った。一ヶ月の訓練が頭の中に蘇った。
無駄を省け。力を流せ。腕の一点に集中させろ。
(ここだ)
意識して、腕に魔力を流した。
初めて自分の意思で使った瞬間だった。
棍棒を振った。
今までとは違った。
一振りで十人が吹き飛んだ。地面を転がり、立ち上がれなかった。
「……なんだ今の」
ドウキが呆然と言った。
俺も驚いていた。だが手が止まらなかった。
もう一度振った。また十人が吹き飛んだ。
ドウサイの目が変わった。
再び斧を地面に突き立てた。今度はさらに深く。地面が大きく割れた。亀裂が網の目のように広がり、その上に立っていた三十人近くが一気に崩れた。土煙が上がった。
ボクシが火球を放った。だが今回は信徒の体ではなく、額の札だけを狙った。
札が燃えた。
その瞬間、信徒の目が変わった。
血走った目が、普通の目になった。呆然と辺りを見回して、悲鳴を上げた。自分がどこにいるか分からない顔だった。そのまま逃げ出した。
「そうか。札を燃やせば我に返るのか」
ボクシが火球を連続で放った。次々と札が燃える。次々と信徒が我に返って逃げ出す。
シャカイが前に出た。
剣を一振りした。
風が巻き起こった。渦を巻くような風が信徒の群れに吹きつけ、額の札を根こそぎ剥ぎ取っていった。
ボクシが目を見開いた。
「風系統か……五系統のどれでもない」
「後で話す」
シャカイが涼しい顔で答えた。
ボクシは何か言いかけたが、口を閉じた。今は戦いの最中だ。だがその目が「必ず聞く」と言っていた。
ドウキが石礫を投げた。倒すほどの力はなかった。だが顔面に当たった信徒が怯んだ。その隙にボクシの火球が札を焼いた。
「なるほど。目眩しか」
「それくらいしかできない」
「十分だ」
戦場の空気が変わっていた。
信徒たちが崩れ始めていた。我に返った者が逃げ、まだ札が残っている者も動揺していた。隊列が乱れ、唱え声が途切れていた。
そこへ地響きが来た。
騎馬の音だった。
地平線の向こうから、旗が現れた。北府の旗だ。騎兵が駆けてくる。二千——いや、もっといるかもしれない。
「北府の援軍だ!」
誰かが叫んだ。
信徒たちが総崩れになった。逃げ惑う信徒を騎兵が追い立てる。
俺は敵将を探した。
崩れた陣の中心で、一人の男が馬上で怒鳴り続けていた。逃げる信徒を止めようとしていた。だが誰も聞いていなかった。
走った。
男の馬の前に立った。
男が俺を見た。
「貴様——」
腕に魔力を流した。訓練で覚えた感触だ。棍棒を振った。
空気が裂けるような音がした。
男は馬ごと吹き飛んだ。地面に叩きつけられた男が、動かなかった。
静かになった。
騎兵の先頭に若い男がいた。俺たちより少し年上か。馬上から戦場を見渡していた。誰かに似た、鋭い目だった。
「生きているか」
俺に向かって言った。
「生きている」
「よくやった。百人で千人を崩したのか」
「崩したのは仲間だ」
男は俺をしばらく見てから、小さく笑った。騎兵を見事に操る手綱さばきだった。名前は名乗らなかった。
ボクシが俺の隣に来た。
「お前、さっき魔力を意識して使ったな」
「ああ」
「どうだった」
俺は棍棒を見た。まだ手に魔力の感触が残っていた。
「悪くなかった」
ボクシが笑った。それからすぐシャカイを見た。
「後で話を聞かせろ。風系統は聞いたことがない」
「構わない」
シャカイが静かに答えた。
ドウキが膝に手をついて息を整えながら言った。
「隊長」
「なんだ」
「死ななかったですね」
「言っただろ」
「根拠なかったくせに」
俺も笑った。
戦場に朝の光が差し込んできた。




