86話 長安出陣
それから一年近い月日が経った。土断法に反対する有力者が反旗を翻すこともあった。だが、それは全て俺とドウサイが、そして荊州ではリュウキの軍が叩き潰した。
土断法は東晋全土まで広がり、新たに戸籍を得た民は二十万人にも及んでいた。国の税収は増え、一人当たりの税の負担は減り、道端や路地裏の貧民の姿は無くなった。兵も新たに五万人が徴兵され、配備されていった。北側の魏、後秦、夏の三国の激闘をよそに、南側は平和なものであった。
「おお!女の子か!」
アイが出産した。可愛い女の子であった。
「おい。あまり頬ずりするとアホが移るぞ」
ボクシが揶揄うのをしかとし、俺は赤子にずっと頬ずりした。
「おぎゃあああああ!」
「ほら。その髭が痛いのよ。可哀そうに」
俺は最近、髭を生やしていた。その方が強そうだと思ったからだ。だが、赤子に泣かれるなら髭は剃ることにしようと思った。慌てて俺から赤子を取り上げたアイが、ぺろんと乳を出し赤子に与えていた。
「ボクシ見るなよ。見たら殺すぞ」
「......見るわけないだろ。俺も命は惜しい」
そんな会話をしながらもボクシの顔は痩せ細っていた。一年前とは頬が削げ落ち、目の下の隈がくっきりと出ている。土断法による戸籍整備を一年で成し遂げたのだ。その功績は大きく、今やオウヒツはボクシを手放そうとせず、他の政務もやらせているようであった。
「ボクシ。少しは休めよ」
「ああ......今日くらいは休むとするよ」
休みなく働いている。とても一日で取れる疲れには見えなかった。夜、酒を飲むと早々と寝てしまっていた。早朝、俺が起きると既にボクシの姿は無かった。俺は心配で仕方なかった。
アイは夜中に何度も起こされるようで大変そうであった。
「俺もこうして育てられたのかな......」
赤子だった頃に記憶はない。だが、物心ついた頃には遅くまで保育園や学童にいた気がする。おそらく赤子だった時も一人の時間が長かったのかもしれない。
「ユウ。話があるの」
ある日、アイが真剣な表情で言ってきた。俺は黙ってアイの言葉を待った。
「この子は実家に預けて、わたしはユウと一緒に戦場にでるわ」
「え!?あ、ああ....そうなの.......!?」
「北府の軍に志願した時から気持ちは変わらないわ」
俺はアイが何故、北府に志願したのか理由を聞いたことがなかった。良家のお嬢様である。俺みたいな寒村の貧乏人とは違う。兵になって立身出世を目指す必要がない立場なのだ。
「モクランって将軍、知ってる?」
「たしか、秦の女将軍だったような......」
「そうよ。敵ではあったけど、見事な最期を遂げたというわ。フケンが愚かでなければ、今頃は女にして大将軍になっていたはずよ。わたしはあんな風になりたい」
いまだかつて僅かな者しか大将軍になった事はない。東晋ではシャアンだ。現役で大将軍の地位にいるものは、中華広しといえど一人もいない。俺はアイがそのようなものに憧れているとは思いもよらなかった。
「女でも能力があれば出世はできる。それでも女と男が平等と言える世界には程遠いわ。実家も同じ。王族に嫁いでほしいとか散々言われたわ。本当に窮屈で詰まらなかったわ。わたしはそんな世の中を変えたかった。」
「そうだったのか.......もし俺が王になったらアイを大将軍に取り立ててやるよ」
アイは俺の言葉に目を大きくして驚いていた。ボクシにだけにしか、王になりたいなどと言ったことがなかった。
「いつか王になった時はお願いね......」
俺は優しく口づけた。
◆
潼関を抜かれた。
魏が北側から圧力を掛けてきた隙をついて、後秦に潼関を攻められ落とされた。
「ヨウセキトクめ......魏のコバンザメのくせに」
魏は後秦の王、ヨウセキトクを支援し夏と敵対している。カクレンと魏とは草原で覇を競った時から、因縁浅からぬ関係が続いている。魏王ケイが死んだ後も、その意思はヨウカに引き継がれている。
夏の国力ではとても魏と後秦の連合には太刀打ちできない。そもそも、魏は夏の倍の兵力を有し、経済力では雲泥の差である。このままでは長安の維持さえも危うかった。
「......長安を捨てるべきです」
カクレンはアリの言葉に咄嗟に反応し、その顔を蹴った。それでもアリはじっとカクレンを見つめ、言を変えることは無かった。
「ただで長安をくれてやるには惜しい......」
「長安が欲しいのは後秦だけではありません。魏と後秦を争わせるのです」
長安は中華支配の象徴だ。魏が長安を押さえるとなると、中華統一に大きく前進する。また後秦に取っても長安奪還は悲願だ。魏の後ろ盾を得ているとはいえ、そこだけは譲ることが出来ない。
「長安を巡って魏と後秦とが反目しあうということか...」
カクレンは速やかに長安の放棄を決め、天水に移った。もぬけの殻になった長安には後秦が入った。
その知らせは建康に届いた。
北の三国の争いに介入するかどうか連日、協議が行われた。もともとカンゲンの時から長安を攻める為に襄陽に兵を集めていたのだ。その兵の大半は現在、レイセキが率いて漢中にいる。土断法の効果で兵も増えている。攻撃の態勢は整っている。
「長安奪還は東晋に取っても長年の悲願だ。胡人の国に譲るわけにはいかない」
オウヒツが言い、ジョセンシも頷いた。皇帝アンテイは相変わらず、何も分からず遠くを見ている。俺は胡人という言葉に違和感を覚えたが、何も言わなかった。
「わたしは反対です。長安を奪うことが出来ても、維持するには相当の国力を使うことになる」
今や政治の中枢にいるボクシは反対だと言った。俺はボクシがそう言うなら、そうなのだろうと思った。意見は割れたままであった。ボクシの言う事にオウヒツもジョセンシも真向から反対出来ないでいる。
だが、その均衡が崩れる知らせが届いた。
漢中にいるレイセキだ。今こそ長安を攻めるべきだと言ってきたのだ。前線にいる将軍の意見は重い。それが攻めると言っている。皆の意見は一気に長安攻めに傾き、ボクシもこれ以上反対しなかった。
長安攻めが決まった。漢中からレイセキが侵攻する。俺は荊州から北上し、後秦の城を攻略しながら潼関を突く。
「.....ボクシ。本当に一緒に来れないのか」
「ああ。今の俺はすっかり政治家だ。オウヒツ様も高齢だし、俺に政務のほとんどを任せるようになっている」
「そうか。だけど、俺はお前が側にいないと不安しかないぞ」
「そうだな。お前はアホだしな」
「.......相変わらず酷い言い草だ」
「事実だ。前に俺が居ない時は別の参謀を使えと言ったのを覚えているか」
「覚えている......コハンを側におくのはダメだぞ。アイが機嫌を損ねる」
「まあな。だが、コハンはエンの軍師だ。そもそも動かせない。だからお前に軍師を紹介してやる。そいつを使ってみてくれ」
ボクシが手紙を書いてくれた。その人物は江陵で隠棲しているという。進軍の途中に寄れと言われた。俺は手紙を受け取った時、嫌な予感がして仕方なかった。俺の勘は当たる。今回ばかりはそれが外れてくれと願った。




