85話 アイの妊娠
各地を回った。会稽のチョウのような大物から、建康近郊の中小の地主まで、抵抗する者は多かった。シャカイが説得し、それでも従わない者は俺とドウサイが乗り込んだ。
門を蹴り飛ばすのは三回目あたりから慣れた。ドウサイは地面を割るのが得意技になり、テイゴは私兵の武器を無言で踏み折っていく。いつしか「土断三人衆」などと呼ばれ、その噂が広まると、俺たちが来る前に観念して門を開ける者も出てきた。
「将軍がそこまでされるなら仕方ありませんな......」
渋々と応じた者たちも、実際に戸籍が整い、税の負担が分散されると態度を変えた。これまで一部の者に集中していた税が、全体に広がったことで、一人あたりの負担は目に見えて軽くなったのだ。
「リンちゃん。商売はどうだ」
「おかげさまで。民に余裕が出てくると、ものが売れるようになるのよ。ありがたいわ」
リンシはほくほくしていた。税が軽くなった分、民は少しずつ余裕を持ち始めている。市場には以前より人が増え、商人たちの表情も明るくなっていた。
「これが本来の姿なのよ。カンゲンの時は、どれだけ搾り取られていたか」
路地裏の貧民も減っていた。戸籍に入った流民は、正式な住所と仕事を得ることが出来た。全員というわけにはいかないが、それでも以前とは見違えるほど街に活気が戻ってきていた。
◆
成果を支えていたのはボクシであった。
建康の政庁に部屋を与えられたボクシは、朝から晩まで書類に埋もれていた。各地から届く戸籍の報告。不備があれば差し戻し、新たな指示を出す。地方の役人が判断に迷って相談に来る。それを一つ一つ捌いていく。
ジョセンシも手伝っていたが、ジョセンシは政治家であり実務官ではなかった。現場の判断が出来るのはボクシだけであった。
俺はたまに建康を訪れ、ボクシの様子を見に行った。
「おい。ちゃんと飯食っているか」
「食っている。余計な心配をするな」
ボクシの顔色は明らかに悪かった。目の下に隈ができ、頬がこけている。書類を捌く手は相変わらず速かったが、時折、筆が止まり、ぼんやりと宙を見つめていることがあった。
「無理するなよ。倒れたらどうするんだ」
「お前が言い出したことだろ。途中で投げ出すわけにはいかない」
「......すまない」
「謝るな。これは必要なことだ。俺もそう思ってやっている」
ボクシは微笑んだ。だが、その笑顔がどこか痛々しかった。
「なあ、ボクシ。手伝える奴を増やそう。オウヒツ様に頼んで......」
「オウヒツ様も忙しい。それに、この仕事は全体が見えている人間がやらないと意味がない。断片的に手伝ってもらっても、かえって混乱するだけだ」
俺はボクシに酒を差し入れた。ボクシは苦笑して受け取った。
「お前と飲むのも久しぶりだな」
「ああ。昔はよく二人で飲んだ」
「北府に入った頃か。あの頃はお前はまだ百人将で、俺は横で小言ばかり言っていた」
「今も小言ばかりだろ」
「......違いない」
二人で笑った。酒はすぐに無くなった。ボクシはまた書類に向かった。俺はその背中を見ながら部屋を出た。
(無理をしている。だが、止められない。俺が始めたことだから......)
◆
土断法の実施から三か月が経った。建康と会稽を中心に、東晋の戸籍に新たに加わった人数は二万を超えた。まだ始まったばかりだが、効果は目に見えていた。税収が増え、それでいて一人あたりの税額は下がった。
この成功を受け、オウヒツは全土への拡大を宣言した。各地に役人を送り、ボクシが作った手順書に従い、同じやり方で戸籍を整備していく。建康から始まった波は会稽を超え、揚州、徐州、そして荊州へと広がっていった。
◆
荊州。
「土断法だと......」
リュウキは届いた報告を読み、奥歯を噛みしめた。リュウユウが主導で戸籍の整備を進めている。民の負担が軽くなり、活気が戻っているという。荊州にも役人が派遣され、同じことが始まろうとしていた。
「あの男にそのような知恵があるのか」
リュウキは信じられなかった。リュウビの血を引く男に、政治の才があるはずがない。リュウビは人を惹きつけることは出来たが、国を治める力はなかった。蜀がショカツリョウの死後に衰退したのがその証拠だ。
「オウヒツやボクシの入れ知恵であろう。だが......」
入れ知恵であろうと、リュウユウの名で行われている。民はリュウユウに感謝する。リュウユウの人望はますます高まる。軍事だけではなく、政治でも実績を積み上げていく。
リュウキは自分にはこれが出来ないと分かっていた。前世でも荊州の統治は部下任せであった。自ら政を行う才覚が欠けている。それがリュウヒョウの限界であり、リュウキになっても変わらなかった。
(あの男は......リュウビと同じだけではないのか)
人を惹きつけ、有能な者に任せ、成果を自分のものにする。リュウビはそうやって蜀を手に入れた。リュウユウも同じことをしている。だが、それこそが天下を取る者の資質なのだと認めたくなかった。
コハンがリュウキの部屋に入ってきた。
「荊州にも土断法が来ますわ。どうなさいます」
「......従うしかあるまい。ここで反対すれば目を付けられる」
「賢明ですわ。今は力を蓄える時です」
コハンは微笑んだ。リュウキはその笑みに安らぎを感じながらも、腹の底で煮えたぎるものを抑えきれなかった。
いつか必ず。あの男を超える。
◆
軍の徴兵にも効果が出ていた。戸籍に名前がある者の中から、志願する者を募ると、以前とは比べものにならない数が集まった。食い扶持目当ての流民ではなく、東晋の民として国を守るという意識を持った者たちであった。
「ようやく、まともな軍が作れそうだな」
ドウサイが練兵場で新兵を見ながら言った。モウチョウも馬の調達が楽になったと喜んでいた。リンシの商会を通じて、各地から良質な軍馬が集まり始めている。
カンシュクの弓隊も拡充された。魔道具の弓を扱える者は少ないが、通常の弓兵は大幅に増えた。カンシュクは新兵に厳しく射撃を教え込んでいた。
「前より楽しそうだな、カンシュク」
「弓兵が増えるのは嬉しい。ようやくまともな弓隊が作れる」
東晋は着実に力を蓄えていた。
◆
そんなある日、アイの妊娠が判明した。
「お前ら、やることはやっていたのだな」
ボクシが建康から戻ってきた時に聞き、開口一番そう言った。顔色は相変わらず悪かったが、目は笑っていた。
「うるさいぞ、ボクシ。揶揄うなよ」
そう言いながらも、俺の顔は綻んでいた。父親になるのだ。喜びがこみ上げてきた。
俺の両親は全く関心がなかった。高校を中退した時も「そうか」としか言わなかった。それよりも仕事に忙しく、両親の話題は自分たちの仕事のことばかりであった。生活には困っていなかった。だが、俺は両親の愛情を受けず、一人で過ごすことも多く、いつしかスロットに嵌るようになった。
(俺がいなくなってどう思っているのかな......)
俺の両親のようにはなりたくないなと思った。子供には寂しい思いをさせたくない。
「なあ。アイ、男の子かな、女の子かな」
「気が早いわよ。ユウはどちらが欲しいの」
「うーん。女の子かな、アイに似て可愛いだろうしな。いや元気な男の子でもいいぞ」
俺が真剣に悩む姿にアイは微笑んだ。
ボクシが小さな声で言った。
「いい顔をしているな、ユウ。その顔を忘れるなよ」
「ん?なんか言ったか」
「いや。何も」
ボクシは酒を呷ると、また建康に帰って行った。その背中は少し小さくなったように見えた。
幸せであった。いつまでもこの幸せが続いて欲しいと思った。




