84話 土断法
建康に護送されたシバキュウシは処刑されることになった。牢の中でも王族の誇りを捨てず、皇帝アンテイのことを「無能者」「阿呆」と罵り続けた。看守たちはその度に水をかけて黙らせたが、翌朝にはまた罵声が響いた。
だが、処刑の前日。シバキュウシは忽然と姿を消した。
牢の鉄格子は内側から外されていた。鍵を開けた形跡がある。看守二人が眠らされており、何も覚えていなかった。
「とても一人で脱獄できると思えぬ。逃がした者がいるはずだ。探せ」
オウヒツは血相を変えていた。シバキュウシに同調するものが建康の中にいる。それも牢の鍵を手に入れられる立場の人間だ。そう考えると気が気でないようであった。
「ギエイ、セキカ。何か分かるか」
俺は諜報部隊のギエイとセキカに聞いたが、二人とも首を振るだけであった。もとより俺の諜報部隊は、俺の私的部隊なのだ。皇帝の命で動くわけでもないし、ましてや牢獄の監視をしているわけでもない。
「放っておけ。今更、あの男を担いだところでどうということはない」
ボクシがそう言うので俺も放置した。再び反乱を起こしたら、また叩けばよい。
だが、オウヒツは納得していない様子であった。内通者がいるという事実が、老いた文官の胸に暗い影を落としていた。
◆
シバキュウシの反乱以降、東晋は大きな戦はなかったが、荊州に派遣したエンたちは、賊徒の残党の始末に追われて帰還できなかった。
俺は来るべき大戦の為に、調練を繰り返し行った。北には魏をはじめ、後秦、そして夏がいる。カクレン。あの女が生きている限り、平和は訪れることはない。
「ボクシ......今度こそ新兵を集めたいのだが、どうしたらいい」
「北府がやったように募集するか」
「いや、それではこの前みたいに、食い扶持を求めてろくでもない奴が集まる。俺たちが兵になった頃より、そんな輩が増えていると思う」
「そうだな。では、やはり戸籍か......」
「難しいことは分からん。オウヒツ様に相談するか」
◆
俺の話を聞いて、オウヒツは目を見開いた。まさか戸籍という言葉が俺の口から飛び出すと思ってもいなかったようだ。
「土断法か......」
「ど......何ですか、それは」
「知らないで言ったのか。お前はたいしたものだ」
東晋は北からの難民や遊牧民を受け入れてきた。人の出入りが多く、どこに誰が住んでいるのか全く把握していなかった。とりあえず仮の住所と名前で名簿らしきものはあったが、戸籍というには程遠く、税をかけるにも、徴兵するにも役に立たなかった。
そこで行われたのが土断法である。「この土地には、この人が住んでいる」と確定するものだ。過去にも行われたことがあったが、地方の有力者の反対が強く、断念した経緯がある。
地方の有力者は流民を囲い、戸籍にない人間を私物化し、労働させ、私兵としていたのだ。それにより税を免れることも出来る。あのカンゲンですら土断法は諦めた。いや正確にはしっかりやるとカンゲンも困るのだ。
「今は一部の真面目に働く者に税が重くのしかかっている。税を払えないものは路地裏で貧民になっている。これは絶対にやるべきだ」
俺は内心、可笑しかった。スロット三昧で税も払わず、朝早くから夜遅くまであくせく働く人たちを馬鹿にしていたのだ。それが、こんな話を真面目にしている。人は変わるものだ。
「かなりの反対が出るぞ。それでもやるか」
「反対する奴は俺がぶん殴ってくる」
「......そうか。お前なら本当にぶん殴ってくるだろうな。だが、これを進めるにはワシだけの力では出来ない。とても手が足りん。ボクシを借りてよいか」
「え!?ボクシを!?」
「他に出来そうな者がおらん。ジョセンシも関わることになるが、今は圧倒的に優秀な文官が足りないのだ」
仕方なかった。俺が言い出したことだ。ボクシも賛成していることだし、引き受けてくれるだろう。だが、俺はいつも側にいたボクシが離れることに寂しさを覚えた。
◆
土断法の発布は建康中を騒然とさせた。
最初に反発したのは、建康に屋敷を構える有力者たちであった。彼らは百人、二百人という流民を屋敷の裏に囲い、安い賃金で働かせていた。戸籍に入れてしまえば、その人間を好き勝手に使えなくなる。税も納めなければならない。
「リュウユウとやらが余計な事を始めおった」
「カンゲンですら手を出さなかった事を、成り上がり者の分際で」
陰口は俺の耳にも届いた。シャカイが各地を回り、丁寧に説得して歩いた。文官は手が足りない。シャカイも狩りだされていた。理路整然と土断法の利点を説き、多くの中小の有力者はそれに応じた。
だが、大物は動かなかった。
「会稽のチョウ殿が拒否しています。調査の役人を追い返したそうです」
ジョセンシが渋い顔で報告してきた。会稽のチョウという大地主は、千人もの流民を囲っていた。自前の私兵を三百も持っている。会稽では誰もが知る有力者であった。
「シャカイの説得は」
「門前払いです」
「......そうか。じゃあ、ぶん殴りに行くか」
「本気ですか」
「本気だ。ドウサイ、付き合え」
「おう」
ドウサイは待ってましたとばかりに大斧を担いだ。
◆
チョウの屋敷は会稽の郊外にあった。塀に囲まれ、門には私兵が立っている。まるで小さな城塞であった。
「何者だ。面会の約束はあるのか」
「リュウユウだ。チョウ殿に会いたい」
門番は俺の体を見上げて、顔を引きつらせた。だが、すぐに態度を改め、横柄に言った。
「チョウ様はお忙しい。帰られよ」
俺は門を蹴り飛ばした。蝶番が吹き飛び、門が倒れる。門番は腰を抜かした。
「忙しいなら早く済ませよう」
ドウサイが後ろで笑っている。テイゴも無言でついて来ていた。私兵たちが慌てて集まってきたが、ドウサイが大斧を地面に突き立てると地面が割れ、私兵たちは転倒した。テイゴは転んだ私兵の武器を無言で踏み折っていく。
「な......何事だ!」
チョウが屋敷から飛び出してきた。太った男であった。絹の衣服を着て、指には宝石の指輪が光っている。
「チョウ殿。土断法にご協力いただきたい」
「断ったはずだ!この暴挙、ただでは済まさんぞ!」
「暴挙はお互い様だ。あんたが囲っている千人は、本来は東晋の民だ。戸籍に入れ、税を納めさせる。そうすればあんたにかかる税も軽くなる」
「黙れ!あの者たちは我が家の財産だ!」
俺はチョウの襟首を掴み上げた。太った体が宙に浮く。チョウは目を剥いて足をバタバタさせた。
「人は財産じゃない。もう一度言う。協力してくれるか」
「ひっ......わ、分かった!分かったから降ろしてくれ!」
俺はチョウを降ろした。チョウは尻もちをつき、涙目で俺を見上げていた。
「ドウサイ。屋敷の裏を見てこい。流民がどんな暮らしをしているか確認しろ」
ドウサイが戻ってきた時、その顔は怒りで歪んでいた。
「......酷いもんだ。まともな飯も食わされていない。病気の者もいる。子供までこき使っていやがる」
俺はチョウを見た。チョウは目を逸らした。
「チョウ殿。この者たちを戸籍に入れるだけでなく、これまでの未払いの賃金を支払え。出来なければ、この屋敷を売って払え」
「そ......そんな無茶な!」
「無茶はあんたがやったことだ。人をこき使って、肥え太って、宝石の指輪を嵌めて。その金はどこから来た。この人たちからだろう」
チョウは何も言えなかった。俺はドウサイに命じて、流民たちを屋敷の外に出させた。ジョセンシの部下が一人一人の名前を記録していく。
流民たちは最初、怯えていた。だが、名前を聞かれ、住む場所を与えると聞き、食事が出されると、表情が変わった。泣き出す者もいた。
「......名前を聞かれたのは初めてだ」
老いた男が呟いた。俺はその言葉が胸に刺さった。名前すら聞かれたことがない。人間として扱われてこなかったのだ。
俺はスロット台の前に座っていた頃を思い出した。隣に誰が座っていても名前なんか知らない。誰も相手に興味がなかった。俺もそうだった。一日中、台の前に座って、誰とも口をきかず、勝っても負けても一人で店を出た。
(俺もこいつらと同じだったのだな。誰にも名前を呼ばれない人間だった)
帰り道、ドウサイが俺に言った。
「ユウ。お前がやっていることは正しい。俺はそう思う」
「......ありがとう。でもまだ始まったばかりだ。会稽だけじゃない。各地に同じような奴がいる」
「全部、ぶん殴りに行くのか」
「ああ。付き合ってくれるか」
「当たり前だ」
ドウサイは大斧を肩に乗せ、白い歯を見せて笑った。テイゴも無言で頷いていた。




