82話 十面埋伏の計①
森の中の道を駆ける。木々の隙間から差し込む光がちらつく。背後から賊徒が迫ってくる。地面を踏みしめる無数の足音が俺の背中に伝わってくる。
「ユウ。伏兵が出るぞ。そのまま駆けるんだ」
ボクシが馬上で叫んだ。俺は振り返りたい衝動を抑え、ひたすら前を見て馬を走らせた。
森の両側から矢が飛んだ。パラパラと、まばらな矢が賊徒の側面を射た。何人かが倒れたが、大した数ではない。数百の伏兵が姿を見せ、矢を放ってはすぐに森の奥に消えていく。
「ははは!それで伏兵のつもりか!無視して追い続けよ!」
シバキュウシは横からパラパラと飛んでくる矢を見て馬上で大笑いした。盾を掲げるまでもなかった。賊徒の勢いは衰えない。むしろ伏兵の頼りなさに気を良くし、足が速まった。
「おい!なんだよあれ!全然、伏兵になってないじゃないか!」
俺はボクシの方を見て叫んだ。数百人の矢なんて蚊に刺された程度だ。後ろからの足音はむしろ大きくなっている。
「あれでよいのだ。黙ってついて来い!」
ボクシは振り返りもせず、前だけを見ていた。俺にはボクシの考えが分からなかったが、今は信じるしかなかった。
◆
森を抜けた。開けた場所に出ると、五百程の歩兵が構えていた。中央にドウキが仁王立ちしている。小柄な体に似合わぬ太い腕を組み、不敵な笑みを浮かべていた。
「よう。待ちくたびれたぞ」
ドウキの合図で、歩兵たちが思い思いに石や瓦礫を投げつけ始めた。ドウキ自身も石礫を放つ。拳ほどの石が風を切り、先頭の賊徒の顔面にめり込んだ。鼻が折れる鈍い音がした。
「ふん!その程度の兵で受けられるものか!蹴散らせ!」
シバキュウシは馬腹を蹴り、騎馬隊を先頭に突撃を命じた。石をぶつけられた程度で止まるはずがない。賊徒は雄叫びを上げ、ドウキの隊に殺到した。
ドウキは最後の石を力いっぱい投げつけた。石はシバキュウシの兜に当たり、鈍い音を立てた。
「この小僧!」
シバキュウシは激怒した。ドウキは舌を出し、くるりと背を向けて駆けた。歩兵たちも一斉に逃げ出す。
「馬鹿にしおって!追え!追え!」
賊徒がドウキの隊を追い、開けた草地に雪崩れ込んだ。
ドサッ!ドサッ!ドサッ!
先頭の数百人が、突然、地面ごと消えた。
落とし穴だ。草で覆い隠された穴が、一面に掘られていた。深さは三間はある。穴の底には削り尖らせた竹槍が林のように突き立てられており、落ちた者は串刺しになった。悲鳴が穴の底から響いてくる。助けを求める声、呻き声、そして途切れていく声。
後続の賊徒は急に足を止めた。目の前の地面が信用できない。一歩踏み出す度に、足元が崩れるのではないかという恐怖が走った。
「くそっ......罠か!」
シバキュウシは落とし穴の縁で馬を止めた。穴の底を見下ろすと、串刺しになった兵たちがもがいている。目を背けたくなる光景だった。
振り返ると、ドウキが遠くでゲラゲラと笑い転げていた。両手を地面について体を二つに折り、涙を流しながら笑っている。
「おい!お前!死にやがれ!」
ドウキはケラケラ笑いながら尻を向け、バンバンと叩いて挑発した。そして脱兎のごとく走り去った。
「あの小僧、覚えていろ!全軍、穴を避けて回り込め!追撃を続けよ!」
シバキュウシは頭に血がのぼっていた。落とし穴で三百は失った。だが、まだ六万以上いる。この程度で怯むわけにはいかない。賊徒は落とし穴を迂回し、再びリュウユウの軍を追い始めた。
◆
追撃は再開された。シバキュウシは騎馬隊二千を先頭に立て、自らも馬を走らせた。落とし穴で舐められた怒りが消えない。
「リュウユウの首をねじ切ってやる」
後続の歩兵たちとの間に、徐々に距離が開いていく。騎馬は速い。歩兵はついてこれない。だが、シバキュウシはそのことに怒りのあまり気づいていなかった。
丘陵地帯に入った。左右に小高い丘が続いている。道は細くなり、騎馬隊は自然と縦に長い隊列になった。
岩陰。
ケイシャンは息を殺していた。一千の騎馬隊が岩陰と丘の裏に身を潜めている。馬の口には布が巻かれ、嘶かないようにしてある。
先頭の騎馬隊が通り過ぎていく。蹄の音が地面を揺らす。目を細め、通り過ぎる数を数える。
騎馬隊が通り過ぎた。後続の歩兵が来る。先頭集団が通過し、中ほどに差し掛かった。歩兵の列は長く伸びきっている。隊列の中ほどが最も薄い。
(ここだ)
ケイシャンは剣を高く掲げた。太陽の光を反射し、合図となる。
「突撃!」
一千の騎馬が一斉に岩陰から飛び出した。地鳴りのような蹄の音が丘陵に響き渡る。ケイシャンは先頭を切り、賊徒の歩兵の列に横から突っ込んだ。
衝突の瞬間、賊徒の体が宙に舞った。ケイシャンの剣が閃き、左右の歩兵を斬り払う。一振りで二人、三人と倒れていく。
「何だ!横から来たぞ!」
「敵だ!騎馬だ!」
賊徒の歩兵は突然の騎馬突撃に混乱した。隊列は真っ二つに断ち切られた。ケイシャンの騎馬隊は隊列を横断すると、反転してもう一度突っ込んだ。
二度目の突撃は更に効いた。一度目で混乱した賊徒は、体勢を立て直す間もなく再び蹴散らされた。剣と馬蹄が肉を裂き骨を砕く。血飛沫が飛び、馬の腹が赤く染まっていく。
「怯むな!数はこちらが上だ!槍を構えよ!」
賊徒の指揮官が叫んだ。だが、槍を構える前にケイシャンの剣が指揮官の首を跳ね飛ばした。首は地面に落ちてゴロゴロと転がった。それを見た周囲の賊徒が、蜘蛛の子を散らすように逃げ始める。
分断された後方の賊徒は、前にも後ろにも行けず右往左往していた。ケイシャンの騎馬隊が何度も横切り、隊列を細切れにしていく。
その時、丘の向こうから太鼓の音が聞こえた。
異様な音だった。東晋の太鼓とは違う、低く腹に響く打音。それが一定のリズムで刻まれていく。
「な......なんだ、あの音は......」
丘の稜線に、見たことのない旗が翻った。旗には虎と蛇が描かれている。
シュクユウの南蛮兵二千が、丘の上に姿を現した。
先頭にシュクユウが立っていた。小麦色の肌が夕日に照らされ、茶色い長髪が風に靡いている。右手に剣、左手に飛刀を三本、指の間に挟んでいた。露出の多い鎧から覗く引き締まった肢体は、戦場においてもなお目を引くほどであった。
「あれが南蛮兵か......化け物みたいな連中だ......」
賊徒が呻いた。南蛮兵は東晋の兵とは明らかに異質であった。肌の色が違う。目つきが違う。手にしている武器も独特で、曲刀や吹き矢、棘のついた棍棒など、見たこともないものばかりだった。
「かかれ!」
シュクユウが剣を振り下ろした。南蛮兵が雄叫びを上げて丘を駆け下りる。その声は咆哮に近く、聞く者の腹の底を震わせた。
飛刀が閃いた。シュクユウの指から離れた三本の刃が、扇状に飛び、賊徒の指揮官たちの喉に突き刺さった。三人が同時に倒れる。指揮官を失った賊徒は、指示を出す者もなく棒立ちになった。
そこに南蛮兵が突入した。
凄惨であった。南蛮兵は一人一人が獣のように戦った。組み付き、噛みつき、叩きつける。東晋の兵にはない、原始的で容赦のない戦い方であった。
シュクユウ自身も馬を駆り、賊徒の群れに突入した。剣が閃く度に血飛沫が舞う。飛刀が尽きると腰から新しいものを取り出し、次々と敵に投じた。賊徒が盾を構えると、盾ごと貫通して背後の男を串刺しにした。
「強すぎる......あの女......」
賊徒は恐慌に陥った。前からケイシャンの騎馬、横からシュクユウの南蛮兵。逃げ場を失い、武器を捨てる者が出始めた。
「降伏した者は殺すな!武器を捨てた者には手を出すな!」
ケイシャンが叫んだ。シュクユウも頷き、南蛮兵を制した。南蛮兵は殺しかけた手を止め、不満そうではあったが従った。シュクユウの統率は確かであった。
分断された後方の賊徒、およそ二万は、その半数が降伏し武器を捨てた。残りは四散して森の中に逃げ込んでいった。
◆
「どうした。後ろが続いていないぞ」
シバキュウシはようやく後続の歩兵が来ていないことに気が付いた。振り返ると、来た道には誰もいない。
「分断された......!」
舌打ちした。だが、シバキュウシにはまだ騎馬隊二千と、ここまでついてきた歩兵が五千はいる。
「構わん!リュウユウの首さえ取れば勝ちだ!」
シバキュウシは引き続き追撃を命じた。リュウユウの旗が前方に見える。あそこまで行けば、この男の首を討てる。そうすれば全てが終わる。
だが、シバキュウシは知らなかった。これはまだ、序盤に過ぎないということを。
本当の地獄は、これからであった。




