68話 逃亡者
「はあ...はあ...まだ追ってくるのか」
ハクエンは追われていた。揚子江を渡ったら安全だと思っていたが、魏が放つ追っ手は途切れることがなかった。時に追っ手を待ち伏せし、不意打ちした。追っ手は手練ればかりで苦戦を強いられた。斬り合いで出来た傷もそのままに、ひたすら山林の中を駆けた。
傷口が膿んでいた。水流剣を振るう腕が震える。疲労がたまっていた。逃亡を始めてから、まともに食事を取れた日は数えるほどしかない。
魏王ケイを剣で刺した。背中から胸にかけ深々と刺し、ケイは絶命した。
(あの男は結局、私の気持ちなど分かっていなかった......)
抱いてくれと迫った。抱かれた。
だがケイは最後に違う女の名前を呼んだ。モクラン。もう死んだ女の名前を、ハクエンの体の上で呼んだのだ。ハクエンは届かぬ愛に絶望しケイを刺した。ケイは何故、刺されたのか理解しているのだろうか。あの目は驚きで見開かれていた。恨みでも、怒りでもなかった。ただ純粋に分からなかったのだ。どうして自分が殺されるのかが。
もはや、それを確認することは出来ない。
ハクエンは夜陰に紛れて逃げた。何故逃げたか分からない。ケイを殺した時点で、自分も死ぬつもりだった。だが体が勝手に動いた。血に濡れた剣を握ったまま、軍営を出て馬に飛び乗っていた。気づいたら揚子江まで来ていた。
(渡ろう......はたして何が待ち受けているのか)
行く当ては無い。だが、何かが呼んでいる気がした。揚子江の向こうには、カクもケイもモクランもいない世界がある。何もかもを捨てられると思った。
エンと名前を変えた。偽名という程のものではない。自分の名の一部を切り取っただけの、投げやりな名だった。だが、揚子江の南側では誰もハクエンの事は知らず、怪しむ者はいなかった。北方の女将軍の名が、この地まで届いているはずもなかった。
東晋であった国は、カンゲンの簒奪により楚と名前を変えていた。魏と比べると荒れた国であった。街の片隅には貧民が溢れている。誰もが痩せ細り、無気力であった。道端で子供が食べ物を乞うている。その横を、豪奢な馬車が砂埃を巻き上げて走り抜けていった。
建康に入った。ここだけは栄えていた。宮殿は壮大であり、大通りには商人が軒を連ね、兵士たちが闊歩していた。だが、それも表向きだ。やはり路地裏には貧民が倒れている。民に重税を課し、王侯貴族だけが豊かな生活を送っている。
腐った国だと思った。いや、腐った国が中原を追い出され、揚子江の南に追いやられたのだ。国の名前は変わっても、晋から続く体質は変わってはいない。北の国にも問題は山積していたが、少なくとも民が路上で餓死するような光景は見なかった。
ハクエンは建康に興味を失った。一泊だけし、更に東へ向かった。建康に留まると、魏の追っ手に見つかる確率が高くなる。人が多い場所は紛れやすいが、同時に追っ手も紛れやすいのだ。
「ここも同じか......」
京口に着いても変わらなかった。地方の都市はもっと状況が良くない。警ら隊の兵たちも弛んでおり、商人から賄賂のようなものを受け取っている姿も見た。かつてこの地には北府と呼ばれる精強な軍があったと聞いていた。その面影は全くなかった。
「わたしは何故、こんなところに来たのであろうか......」
呼ばれている気がして南に渡った。だが、ここには何もなかった。腐った国と、弛んだ兵と、飢えた民がいるだけだ。ハクエンは自嘲した。自分もまた、何もかもを失った流浪の身に過ぎないのだと。
背後に気配を感じた。見られている。それは人波に紛れ、何人いるのか判別できない。だが、その中に、手前に恐ろしく腕が立つ女がいた。普通の人間では感じられないだろう。気配を消すことに長けている。歩き方にも隙がなく、周囲を見る目が鋭い。だが、ハクエンは歴戦の強者だ。女のただならぬ気配に警戒をした。
「あの女が刺客であれば、勝てるか分からない」
今の自分は万全ではない。傷が癒えていない。食事も十分に取れていない。まともに戦えば五分だろうが、今の体では分が悪い。
ハクエンは極力気配を殺し、人波に紛れた。途端に女は走った。すると背後にいた気配は女を追った。四人いた。あの女を敵だと認識したのであろう。女が走ったことで、背後に潜んでいた者たちの気配が乱れた。
ハクエンは跡を付けた。四人は魏の匂いがした。身のこなしに見覚えがある。自分を追ってきた追っ手と同じ流派の動きだ。ということは、あの四人は自分を追う者の仲間であろう。だが、彼らはハクエンではなく、あの女を追った。
北府と書かれた門があった。塀で覆われたそこは軍の施設の跡地のようであった。雑草が生い茂り、長らく使われていない。女は塀を飛び越え中に入った。四人もそれに続いた。
中で争闘の気配がする。金属がぶつかり合う音が微かに聞こえた。だがそれを感じたのも、ほんの僅かな間であった。四人の気配が消える。一人ずつ、順番に消えていった。最後の一人だけは少し長く持ったが、やがてそれも途絶えた。
門から女が出てきたのをみて、ハクエンは身を潜めた。女の手には血に濡れた短刀が握られていた。息一つ乱していない。四人を相手にして、まるで散歩から帰ってきたかのような表情であった。
もう一人、男の仲間がいる。武芸の腕はさほどではなさそうだ。ただ、身のこなしが只者ではなかった。足音を立てずに歩き、常に周囲を警戒している。おそらく男は密偵か何かであろう。
(あの女一人で四人を殺したのか......)
ハクエンは感嘆した。自分が万全な状態でも、あの四人を一人で相手にするのは容易ではない。この女は間違いなく一流の暗殺者だ。そしてあの女は魏の追っ手ではなかった。追っ手を返り討ちにしたのだ。
ということは、あの女が仕える主人がいる。あのような者を配下に持つ人間は、並大抵の者ではないはずだ。ハクエンの中に、微かな興味が生まれた。
京口の宿に泊まり湯あみをした。旅の垢を洗い流す。湯の中に沈むと、傷口がしみた。体中に斬り傷がある。腕の傷は特に深く、水流剣を握るのが辛い。鏡に映った自分の顔は、かつての女将軍の面影が薄れ、やつれた逃亡者の顔になっていた。
湯から上がり、濡れた髪を絞った。窓の外は暗い。京口の夜は静かだった。魏の追っ手の気配は今のところ感じない。あの四人が戻らなければ、魏は次の手を打つだろう。それまでに、この町を出るか、あるいは——
(あの女の主人のところに行ってみるか......)
行く当てのない逃亡に疲れていた。どこへ逃げても魏の手は伸びてくる。一人で逃げ続ける限り、いつか捕まる。ならば、あの暗殺者を配下に持つ人物の懐に入るのも、一つの手だと思った。
ハクエンは寝台に横になり、天井を見つめた。ケイの顔が浮かんだ。刺した時の感触が手に残っている。あの驚いた目。分からないという顔。
(......私はこれからどうなるのだろう)
答えは出なかった。だが、明日はあの女の行方を追ってみようと思った。この腐った国の片隅に、何かがある気がした。




