67話 魏王の死
潼関。
黄河が大きく東に折れ、渭水と合流するこの場所は、古来より中華を東西に分ける最大の要衝である。この関を抑える者が、長安を守ることが出来る。
カクレンは城壁の上から、魏の軍が後退していくのを眺めていた。追撃するべきか決めかねていた。前日の戦闘で魏軍を叩いた。カクレン自身も鉄鞭を振るい、魏王の副官に重傷を負わせた。
だが、その程度で魏が撤退を決めるとは思わなかった。魏は夏の数倍の兵力を持つ大国である。多少、崩れたくらいで退く道理がない。
罠を警戒するのは当然であった。
「アリ。追撃はどう思う」
「罠かもしれません。魏が一度引いて、こちらを関の外に誘い出す手です」
カクレンの最も信頼する古参の将、アリは慎重であった。カクレンがまだ匈奴にいた時から従い、命を救い、ここまで共に戦ってきた。カクレンの狂気にも動じず、常に冷静な判断を下す男であった。
「追撃は止めておけ。アリの言うことは大抵正しい」
だが、魏軍が完全に撤退した後、その理由を知り、カクレンは後悔した。
「そんなことがあるのか......」
魏王ケイが、配下の将軍に殺された。
ケイの遺体は無かった。殺した将軍も逐電していた。ケイの軍営には夥しい血痕と、血のついた剣が残されていたという。剣が突き刺さっていたのは寝台の上であり、周囲に散った鎧の留め金や衣服の乱れから、何が起きたのかは想像に難くなかった。
「将軍に殺されたのではない。女に殺されたのだ......」
カクレンは女としての直感でそう感じた。アリも同意した。軍営の中で、寝台の上で、鎧を外した状態で殺された。それは戦場の暗殺ではない。閨房の殺人である。
魏の混乱は相当なものであった。ケイには子がいなく、跡継ぎも決まっていなかった。通常であれば、後継争いで国が割れてもおかしくない。
だが、皇后ヨウカと宰相のサイコウが素早く混乱を収束した。ヨウカは燕の英雄ボヨウスイの娘であり、その人望は厚かった。北の草原の族長たちも、ボヨウスイの名を聞けば従わざるを得ない。魏の将軍たちも健在であり、ヨウカ支持を表明したことで、反乱などは起きなかった。
カクレンは舌打ちした。
ケイが死んでも、魏の国力と軍事力は、夏の倍以上はある。潼関を守るだけで精一杯であった。むしろケイが生きていた時の方が、ケイ個人の判断の隙を突ける余地があった。今のヨウカは慎重で隙が無い。サイコウが政務を固め、軍は動揺していない。
「あの時、漢中を手にしていれば魏に対抗できたのに」
カクレンはリュウユウの顔を思い出す。あの男を従えることが出来ていれば、中華の統一は夢ではなかった。
益州平定後、リュウユウは将軍の地位を剥奪された。そしてカンゲンが簒奪し、東晋は楚と国号を変えた。リュウユウの噂は聞こえなくなっていた。
「あの男は今頃何をしているのか......」
カクレンは軍営の寝台に横になった。天井を見つめる。リュウユウのことを考えると体が熱くなるのを感じた。カクレンの手が無意識のうちに動き、自らを慰めていた。
◆
「魏の刺客......」
俺はセキカとギエイの報告を聞き首を傾げた。何故、魏が俺を狙っているのか見当が付かなかった。ボクシも腕を組んで首を振っている。魏とはこれまで全く関わりが無いのだ。
「四人も送り込んできたのだ。しかも全員が手練れだった。遊びや偵察ではないだろう」
ボクシの言葉に、セキカが頷く。
「四人のうち三人は私が仕留めた。だが、最後の一人は舌を噛んで死んだ。それだけの覚悟がある任務だったということだ」
「何か手がかりは」
「黒貂の襟巻を身に着けていた。鮮卑のものだ。以前、広固にいた時に見たことがある」
「鮮卑......だが、何故俺なのだ」
セキカは少し間を置いて言った。
「あるいは、お前を狙っていたのではないかもしれない」
「どういうことだ」
「京口には色々な人間が流れてくる。カンゲンの簒奪で東晋は乱れている。逃亡者も多い。魏が追っているのは、その中の誰かかもしれない」
「まだ、お前が狙われているとは限らない。だが警戒することだ」
ボクシの言葉に俺は頷いた。
「分かった......セキカ、ギエイ。引き続き情報を集めてくれ」
◆
「手練れが四人も帰って来ないだと......」
ヨウカは苛立ちを抑えきれず、玉座の肘掛けを叩いた。邯鄲の宮殿は壮大であるが、ケイが死んでからというもの、どこか薄暗く感じられた。
「かつて北府があった廃墟で遺体が見つかりました。三人は刃物で殺されております。切り口から見て、一人の手によるものと思われます。一人は追い詰められたのか、舌を噛み切って死んでいます」
「一人でやったのか......あの女の仲間か」
「分かりません。あの女を匿っている者がいるのかもしれません。あるいは、京口には腕の立つ者が多いとも聞きます」
ヨウカは立ち上がり、窓から外を眺めた。邯鄲の城壁は高く、その眺望は素晴らしいものであった。ケイと共にこの景色を見たことがある。ケイは何も言わなかった。いつも何も言わなかった。
ケイとは皇帝と皇后の関係ではあるが、その間に愛があったわけではない。魏と燕が結ぶ為の政略結婚だった。
抱き合ったことはある。だが、ケイの態度は最後までよそよそしく、子を成すことが出来なかった。ケイは何故か子をつくることを警戒しているようであった。
もっともケイは他の誰かと深い関係にあったわけではない。女性に囲まれていたが、誰とも心を許していなかった。結局はそれが仇となり、あの女将軍に殺されたのだ。ハクエン。魏王を守る禁軍の女将軍。ケイの寝台で、鎧の留め金を外し、体を開き、そしてケイが果てた後に背中から剣を突き刺した。
ヨウカは拳を握った。ケイをいつか自分に振り向かせたいと思っていた。それも叶わぬ夢となった。それにケイは魏そのものだ。魏を殺した女を許すわけにはいかなかった。
「早く捕まえよ。魏の威信に関わることだ」
宰相のサイコウが控えめに進言した。
「ヨウカ様。楚の領内で事を起こすのは危険です。カンゲンが匿っているとすれば、外交問題になりかねません」
「カンゲンが匿う理由がない。あの男は自分の事しか考えていない。逃亡者を匿って魏と敵対する度胸はないだろう」
「では、京口に逃げたのは偶然でしょうか」
「おそらくな。あの辺りは楚の端だ。カンゲンの目も届きにくい。逃亡先には打ってつけだ」
ヨウカは再び窓の外を見た。魏の国運がヨウカの双肩に重くのしかかっている。だが、ヨウカの他に誰も魏を率いる者がいない。それは英雄の血を受け継ぐ者の宿命と受け入れるしかなかった。
「次は十人送れ。それでも足りなければ百人送れ。あの女は必ず捕らえよ」
サイコウは深々と頭を下げた。ヨウカの目には、父ボヨウスイと同じ光が宿っていた。




