6話 ユウ初陣
出発の朝は霧が出ていた。
京口の城門を出ると、街の喧騒が遠くなった。三十人が隊列を組んで歩いている。みな無言だった。
昨夜の焚き火の話とは空気が違った。
家人の一人が隣を歩く男に小声で言った。
「本当に行くのか」
「アイ様の命だ」
「三十人で千人だぞ」
声が聞こえた。聞こえないふりをした。
ボクシが俺の隣に来た。
「聞こえているか」
「聞こえてる」
「動揺している。当然だ」
「どうする」
「お前が何か言うべきだ」
「俺が?」
「指揮はアイだが、この戦いを引き受けたのはお前だ。お前の言葉でなければ意味がない」
俺は隊列を止めた。三十人が振り向いた。アイも振り向いた。
「なんだ」
アイが言った。
「少しだけ話させてくれ」
アイは黙った。止めなかった。
俺は三十人を見た。
「怖いか」
誰も答えなかった。
「俺は怖い。三十人で千人に挑むなんて、正気の沙汰じゃない。死ぬかもしれない」
静かだった。霧の中で誰かが息を呑んだ。
「だが、シャアン様はこれをやれと言った。意味のない試練は与えない方だと思っている。俺はそれを信じる。それだけだ」
ドウキが鼻を鳴らした。
「相変わらず根拠がないな」
「ない」
「……まあいい。行くぞ」
ドウキが歩き出した。家人たちが続いた。
アイが俺の横を通り過ぎる時、小さく言った。
「……悪くなかった」
褒めているのか貶しているのか分からなかった。
二日かけて山間の村に近づいた。
ボクシが地図を広げ、アイと地形を確認した。俺は輪の外で聞いていた。
「斥候を出す」
アイが言った。
「盗賊も斥候を出しているはずだ。気をつけろ」
「分かっている」
家人の一人が夜闇に消えた。しばらくして戻ってきた。
「アジトを確認しました。村の外れの廃屋に集まっています。見張りは少ない。今夜が好機です」
アイが頷いた。
「夜襲をかける。山の裏手から回り込んで、二手に分かれて挟み撃ちにする」
ボクシが口を開いた。
「待て。盗賊が斥候を出しているなら、こちらの動きを察知している可能性がある」
「斥候は一人だった。見張りも少ない。奇襲は有効だ」
「一人しか確認できなかっただけだ。他にいないとは言えない」
アイの目が鋭くなった。
「では正面から千人に突っ込めというのか」
「そうは言っていない。もう一度確認を——」
「時間がない。夜が明ければ奇襲の意味がなくなる。行くぞ」
ボクシが俺を見た。
俺は何か言うべきだったかもしれない。勘が微かに鳴っていた。止まれと言いかけた。だが声が出なかった。何がおかしいのか、言葉にできなかった。言葉にできないものは、止める理由にならなかった。
その一瞬を、俺は後悔することになる。
三十人が山の裏手から回り込んだ。
草を踏む音を殺しながら、廃屋に近づく。月が雲に隠れていた。好条件に見えた。
アジトが見えてきた。
暗い。静かすぎた。
(おかしい)
勘が叫んでいた。だが止める間もなかった。
「行くぞ」
アイが走り出した。家人たちが続いた。
廃屋の扉を蹴破る。
中は空だった。
もぬけの殻だった。
アイが足を踏み入れた瞬間——
ばちんという音がした。
床が抜けた。いや、違う。網だ。床に仕掛けられた網が弾けて、アイを包んだ。そのまま天井の梁に向かって一気に引き上げられた。
「っ——!」
アイが宙に浮いた。網の中で身をよじる。その拍子に裾がめくれた。白い太ももと、その奥に白い布地が見えた。
一瞬、全員が固まった。
「な——何を見ているのですか!!」
アイの声が裏返った。普段の口の悪さが消えていた。凛とした、だが明らかに動揺した声だった。
「見るな!こちらを見るな!誰か降ろしなさい!」
お嬢様だ、と思った。
家人たちが慌てて動こうとした次の瞬間、四方の闇から松明が現れた。
盗賊たちだった。百、二百——数え切れない。廃屋の周囲を完全に囲んでいた。
やはり気づかれていた。
盗賊の一人が宙吊りのアイを見上げて、下品に笑った。
「おっ、上玉じゃねえか。今夜は楽しめそうだ」
笑い声が広がった。
頭に血が上った。
「ボクシ」
「分かってる」
俺は走り出した。
正面の盗賊の壁に向かって一直線に突っ込んだ。
先頭の男を掴んで投げ飛ばした。後ろの男を殴った。蹴った。掴んだ。投げた。
体が熱かった。魔法を使っている実感はなかった。ただ体が動いた。
盗賊たちが群がってくる。十人、二十人。数で押しつぶそうとしてくる。だが俺の体には届かなかった。殴られても痛くなかった。
「馬草に火をつけろ!」
ボクシの声がした。
廃屋の脇に積んであった馬草に火球が飛んだ。轟と音を立てて燃え上がった。盗賊の馬が暴れ出した。悲鳴と怒号が飛び交う。
包囲が崩れ始めた。
家人たちが動いた。混乱した盗賊に斬り込んでいく。数では圧倒的に劣るが、動きが違った。ゾウ家で鍛えられた剣術だ。一人が二人、三人を相手にしながら崩れない。ドウキが盗賊の横っ腹に体当たりして吹き飛ばした。アイを降ろそうと梁に向かって走る。
その隙に俺は奥へ進んだ。
網の綱を見つけた。掴んで引きちぎった。アイが落ちてくる。
受け止めた。
アイが俺の腕の中にいた。目が合った。
「……降ろしなさい」
「今すぐ降ろしたら危ない」
「……分かりました。早く」
お嬢様口調のままだった。
盗賊の親分らしい大男が怒鳴りながら突っ込んできた。鉄の棍棒を振り回している。
アイをドウキに渡した。
親分が棍棒を振り下ろした。片手で受け止めた。棍棒が歪んだ。親分の目が見開かれた。
そのまま胸ぐらを掴んで持ち上げた。
「降参するか」
親分は宙に浮いたまま頷いた。
「降参だ!降参する!」
親分を地面に下ろした。
「武器を捨てろ!」
親分が怒鳴った。盗賊たちが次々と武器を投げた。金属が地面に散らばる音が広がった。
静かになった。
夜明けが近かった。
盗賊たちを縄で繋いでいる間、アイが俺の横に来た。裾を直している。顔が赤かった。
「……見たか」
「見ていない」
「嘘をつくな」
「……少し見た」
アイが俺の脛を蹴った。
「この話は二度とするな」
「しない」
「絶対にするな」
「しない」
アイはしばらく黙っていた。それから小さく言った。
「……助けてもらった。礼を言う」
素直だった。驚いた。
「気にするな」
「気にする。貸し借りははっきりさせる」
アイが家人たちの方へ歩いていった。
家人たちが俺を見ていた。さっきまでとは違う目だった。
ドウキが俺の隣に来た。
「やるじゃないか」
「お前もな」
「俺はあんたが本物かどうか確かめに来ただけだ」
「結果は?」
ドウキが笑った。
「本物だ」
夜明けの光が山の端から差し込んできた。
盗賊八百人余りを前に、三十人が立っていた。
まったく正気の沙汰ではなかった。だが、やり遂げた。
ソンオン(孫恩)の乱は399年頃に起きた五斗米道という宗教が起こした反乱です。五斗米道は三国志ファンなら張魯を思い浮かべると思います。物語は389年から始まっているので、設定上は史実より早く発生していることになります。




