4話 数十人で千人を退治しろ
試験会場は練兵場だった。
城外に広がる広大な平地に、数百人の男たちが集まっていた。北から逃れてきた難民、遊牧民崩れ、行き場をなくした兵崩れ。みな目つきが鋭く、体つきが違った。これが全員ライバルだ。
ボクシが隣に立っている。
「全員受かるわけがない。覚悟しておけ」
「分かってる」
分かっていなかった。筆記試験のことを考えると胃が痛かった。
どよめきが起きたのは、試験開始の少し前だった。
練兵場の端に、一人の男が現れた。
年は六十を過ぎているだろうか。白髪交じりの髪を束ね、鎧ではなく質素な袍を着ていた。武器も持っていない。それなのに、その男が歩くだけで周囲の空気が変わった。
静寂が広がった。数百人が、一瞬で口を閉じた。
「シャアン様だ」
誰かが息を呑むように呟いた。
ボクシの顔が変わった。普段の冷静な目が、子どものように見開かれている。手が微かに震えていた。
「本物だ……北府を作った……シャアン様だ……」
「誰だ?」
「淝水の戦いで秦の百万の大軍を退けた方だ。この方がいなければ東晋はとっくに滅んでいた……」
ボクシだけではなかった。数百人の男たちが、誰一人声を上げず、ただその男を見ていた。頭を下げる者もいた。膝をつく者もいた。
シャアンは練兵場をゆっくりと見渡した。静かな目だった。百万の軍を退けた男の目とは思えないほど、穏やかだった。
かっこいい、と思った。誰かは知らなかったが、そう思った。
隣を見ると、アイがいた。いつの間にか近くに来ていた。その目もシャアンを見ていた。珍しく口を閉じている。
「アイ」
声をかけると、鋭い目でこちらを睨んだ。そのまま二歩横にずれた。
試験が始まった。
最初は体力試験だった。
練兵場の外周を走る。後ろから試験官が追いかけてくる。抜かれたものは即脱落だ。
号令とともに数百人が走り出した。地面を蹴る音が重なり、砂埃が舞い上がる。
最初は集団の中にいた。だが自然と足に力が入ってくる。地面を蹴るたびに体が前に出る。前の人間を抜く。また抜く。気づけば先頭にいた。
後ろを振り向くと、集団が遥か後方に見えた。試験官の姿も豆粒ほどだ。
そのまま走り続けた。途中から走っているのか飛んでいるのか分からなくなった。足が軽い。どこまでも走れる気がした。
ゴールすると、試験官たちが黙って顔を見合わせていた。
しばらくして集団がゴールしてきた。ボクシが息を切らして戻ってきた。アイも顔を赤くしながら戻ってきた。二人とも抜かれていない。
「お前……どんな走り方をしたんだ」
ボクシが肩で息をしながら言った。
「普通に走った」
「普通じゃない」
アイは何も言わなかった。ただこちらを一度見て、視線を外した。
続いて筆記試験だった。
石板と筆が配られた。孫子と呉子から出題されると試験官が言った。
隣でボクシが筆を走らせている。反対側ではアイが迷いなく書いている。二人とも満足げな顔だ。
俺の石板は白いままだった。
一文字も書けなかった。問題が読めなかった。何を聞かれているかも分からなかった。
時間が来た。試験官が石板を回収していく。俺の白紙を見て、何も言わなかった。その無言が一番堪えた。
最後が魔法試験だった。
一人ずつ前に出て、試験官の前で魔法を使う。
ボクシが前に出た。剣を抜き、一振りする。火球が宙を飛ぶ。試験官が何かを書き留めた。並の評価だろう。ボクシ自身も分かっているのか、表情を変えずに戻ってきた。
アイの番になった。
アイは前に出ると、腰の剣を迷いなく抜いた。そのまま試験官に向けて振り下ろした。
試験場が凍りついた。
試験官の腕から血が滲む。周囲がざわめいた。怒号が飛びかけた瞬間、アイが斬った腕に手を当てた。
光が滲んだ。
傷が塞がっていく。みるみるうちに肌が元に戻る。血の跡だけが残った。
どよめきが起きた。
試験官が腕を確かめ、目を見開いた。周囲の試験官たちも顔を見合わせている。一人が呟いた。
「これほどの治癒魔法の使い手は……」
アイは何も言わず戻ってきた。涼しい顔をしていた。
俺の番になった。
前に出ると、試験官が聞いた。
「系統は」
「木だ。強化魔法だと思う」
「思う?」
「使った実感がない」
試験官が首を傾けた。
「では見せてみろ」
練兵場の端に大きな岩があった。何人かかりで運んできたような代物だ。
近づいて抱きかかえると、軽かった。そのまま高々と掲げた。頭の上に持ち上げた。試験官たちが後ずさった。
投げ飛ばすと、岩は練兵場の端まで飛んで、どさりと落ちた。地面が揺れた。
魔法を使った実感はなかった。ただ岩が軽かっただけだ。
試験官が黙って何かを書いていた。その表情は読めなかった。
試験が終わった。
合格者の名前が読み上げられた。名前が呼ばれるたびに歓声と悲鳴が交互に上がる。
ボクシの名前が呼ばれた。ボクシは小さく頷いた。
アイの名前が呼ばれた。アイは表情を変えなかった。
名前は続く。知らない名前が続く。
俺の名前は出なかった。
「以上」
試験官がそう言った。
膝から力が抜けた。砂の上に膝をついた。
白紙の石板が頭をよぎった。筆記で落ちたのだ。体力で誰にも負けなかった。魔法で岩を投げ飛ばした。それでも白紙一枚で終わった。字が書けなかった。ただそれだけで終わった。
悔しいとも思わなかった。情けなかった。転生して怪力を手に入れ、魔法まで使えた。なのに字が書けないという、それだけのことで夢が終わった。砂が膝に食い込んでいた。立ち上がれなかった。
足音が近づいてきた。
顔を上げると、さっきの試験官が立っていた。顔に刻まれた皺が深い。目が鋭かった。
「リュウユウだな」
「そうだ」
「私はリュウロウシという」
周囲がざわめいた。ボクシが息を呑む気配がした。
「洛澗で……秦を破った……」
ボクシが震える声で呟いた。試験官がリュウロウシだとは誰も思っていなかったらしい。
リュウロウシは周囲のざわめきを意に介さず、俺を見た。
「シャアン様がお前を呼んでいる。ついてこい」
砂の上に膝をついたまま、しばらく動けなかった。
連れていかれたのは練兵場の端にある小さな建物だった。
中に入ると、シャアンが一人で椅子に座っていた。卓の上に茶が置かれている。窓から練兵場が見えた。
シャアンは俺が入ってきても立ち上がらなかった。ただ静かにこちらを見た。
何も言わなかった。
ただ俺の顔を見ていた。品定めでもなく、値踏みでもなく、何かを確かめるような目だった。その視線が居心地悪くて、俺は目を逸らしかけた。
だが逸らさなかった。
どれほど沈黙が続いただろうか。シャアンはじっと俺の顔を見たまま動かなかった。やがて、スッと眉が上がった。それだけだった。それだけで何かが決まった気がした。
「北府に入りたいか」
「入りたい」
「ならば試練を達成しろ」
「試験に落ちたのに、まだ試練があるのか」
「試験とは別の話だ」
シャアンは茶を一口飲んでから続けた。
「ソンオンの手下の盗賊団がいる。千人だ。それを退治しろ」
一瞬、聞き間違えたかと思った。
「千人……ですか」
「そうだ」
「俺一人でですか」
「数十人を自分で集めろ。それで千人を退治しろ」
頭の中が真っ白になった。数十人で千人。どういう計算だ。
「できなければ北府には入れん」
シャアンはそれだけ言って、また茶を飲んだ。話は終わりだという顔だった。
俺は何も言えなかった。うなずくしかなかった。
部屋を出ると、リュウロウシが待っていた。
「明後日までに人を集めろ。場所はこちらで指定する」
それだけ言って、リュウロウシは去っていった。
練兵場に戻ると、ボクシとアイが立っていた。
「何を言われた」
ボクシが聞いた。
「数十人を集めて、千人の盗賊を退治しろと言われた」
ボクシが固まった。
「……正気か」
「シャアン様が言った」
ボクシはしばらく黙ってから、深くため息をついた。
「行くぞ」
「お前も来るのか」
「当然だ。将軍になるには実績がいる」
アイを見た。アイは腕を組んで空を見上げていた。
「アイはどうする」
「……リュウロウシ様に命じられた」
「渋々か」
「うるさい」
三人で練兵場に立っていた。日が傾いてきていた。
数十人を、どこで集めればいい。
まったく見当がつかなかった。
シャアン(謝安)は383年に起きた淝水の戦いで、90万とも100万とも言われる前秦の大軍を、たった7万の軍で撃破した名将です。史実では385年に死去していますが、この物語では北府の総帥として存命してます。リュウロウシ(劉牢之)もまた北府の軍を代表する人物で叩き上げの武将です。




