39話 いっときのハーレム
建康は京口とは別の世界だった。
城壁が高い。道が広い。行き交う人間の数が違う。商人、貴族、兵士、官吏。それぞれが別の顔をして同じ石畳を歩いていた。
俺とボクシだけだった。将軍になったとはいえ、連れてこられたのは二人だけだ。
「大きい街だな」
「建康だ。東晋の都だ。当然だ」
ボクシが周囲を見ながら言った。
◆
正式な任命式が行われた。
皇帝が玉座に座っていた。目が虚ろだった。何も分かっていないような顔をしていた。辞令が読み上げられた。リュウユウ、将軍に任ずる。皇帝が頷いた。だがその目は俺を見ていなかった。どこか遠くを見ていた。
式が終わった後、ボクシが小声で言った。
「あれが皇帝だ」
「……知っている」
「見れば分かるだろう。カンゲンが全部仕切っている。皇帝は飾りだ」
俺は何も言わなかった。
◆
その夜、カンゲンの屋敷に招待された。
広かった。京口の屋敷など比べものにならない。庭に池があった。橋がかかっていた。灯りが水面に映っていた。
歓待を受けた。食事が並んだ。見たことのないものばかりだ。酒が注がれた。香りが違った。
カンゲンが上座に座っていた。扇を手に持ったまま微笑んでいた。
「リュウユウ将軍。よく来てくれた」
「お招きいただきありがとうございます」
「遠慮はいらない。今夜はゆっくりしてくれ」
俺はカンゲンを見た。初めて間近で見た。細身の男だ。目が鋭い。笑っているが目が笑っていない。
この男がシャアンの敵だ。幼王を殺した男だ。
だが今は笑顔で酒を勧めてくる。
◆
翌日、建康に屋敷が与えられた。
大きかった。門をくぐると庭が広がっていた。部屋がいくつもあった。
そして風呂があった。
広かった。石造りで湯気が立ち上っている。こんな風呂は見たことがなかった。
侍女がいた。たくさんいた。色とりどりの衣を着た女たちが並んで頭を下げた。
「将軍のお世話をいたします」
俺は固まった。
ボクシが小声で言った。
「カンゲンからの贈り物だ」
「……分かっている」
分かっていたが、これほどとは思っていなかった。
◆
夜になると侍女が順番にやってきた。
一人目が来た。断れなかった。
二人目が来た。気づいたら朝になっていた。
三人目が来た。
俺は骨抜きになっていった。
これまでの人生でこんな経験はなかった。チンピラだった頃、女に縁などなかった。北府に入ってからも戦いばかりだった。
それが今、こうなっていた。
悪い気はしなかった。というか、何も考えられなかった。
ボクシがいつの間にかいなくなっていた。どこに行ったのか聞いていなかった。そのことに気づく余裕もなかった。
◆
数日後の昼間だった。
俺は風呂に入っていた。
湯気が立ち込めていた。広い湯船に肩まで浸かっていた。侍女が三人、湯船の縁に腰かけて俺の肩や背中を揉んでいた。別の二人が湯を足していた。
「将軍、肩が凝っていますね」
「戦場に出ていたのですから当然ですわ」
俺はすっかり緩んでいた。目が半分閉じていた。
(これがずっと続けばいいのだが)
その時、廊下の方が騒がしくなった。
「お待ちください。将軍は今……」
「うるさい。どきなさい」
聞き覚えのある声だった。
俺は目を開けた。
扉が勢いよく開いた。
アイが立っていた。
湯気の中の光景を見た。俺と侍女たちが湯船に並んでいるのを見た。
一瞬固まった。
それから目が変わった。ゆっくりと剣を抜いた。
「……何これ」
「アイ。これには事情が」
「事情?」
アイが一歩入ってきた。侍女たちが悲鳴を上げて飛び退いた。
「女の尻を追い回して風呂に入っていることに、どんな事情があるの」
「カンゲンを油断させるための作戦で……」
「黙りなさい」
アイの声が低くなった。
「あなたのそれを斬り落とすわよ」
湯船の中で俺は両手で股間を押さえた。
ボクシが扉の外から顔だけ出していた。腕を組んでいた。ざまあみろという顔をしていた。
侍女たちが浴場の隅で肩を寄せ合って震えていた。
「将軍……助けてください」
「黙っていて」
アイが侍女たちを一瞥した。それから俺を見た。
「どうするの」
俺は湯船から出た。
床に額をつけた。
「……すまなかった」
濡れたまま土下座だった。
長い沈黙が続いた。
「……分かった。今回だけよ」
アイの声がわずかに和らいだ。
侍女の一人が恐る恐る声をかけた。
「あの……私たちは……」
「あなたたちは悪くない」
アイが静かに言った。
「ただ帰ってください」
◆
翌日、俺はカンゲンの屋敷に出向いた。
「侍女たちをお返しします」
カンゲンが扇を止めた。
「……気に入らなかったか」
「ありがたいお心遣いですが、身に余ります」
カンゲンの目が細くなった。
「そうか」
それだけだった。だが扇の動きが変わった。
シュカが傍らで俺を見ていた。
俺は頭を下げて屋敷を出た。
カンゲンが小さく言うのが聞こえた。
「……取り込めないか」
◆
その頃、京口では。
リュウロウシの様子がおかしかった。
シャアンが死んでから、どこか変わった。北府を率いる重圧だけではない。もっと別の何かがある。
執務室に一人でいることが増えた。酒を飲む量が増えた。部下への言葉が短くなった。
ドウキが心配して声をかけた。
「将軍。お体は」
「問題ない」
それだけだった。
リュウロウシは窓の外を見ていた。
シャアンは自分ではなくユウに託した。なぜだ。自分はシャアンのために北府を守ってきた。シャアンの剣であろうとしてきた。それなのに。
嫉妬だと分かっていた。みっともないと分かっていた。だが消えなかった。
その時、来訪を告げる声がした。
「シュカ殿がお見えです」
リュウロウシが目を上げた。
扉が開いた。
シュカが入ってきた。笑顔だった。
「リュウロウシ将軍。ご無沙汰しております」




