37話 本当の名前
リンシが船着き場へ案内した。チョウセキが先に乗り込んで準備を整えていた。
ゴロウがリンシとチョウセキの前に立った。懐から何かを取り出した。
宝石だった。深い赤色をしていた。見たことのない石だ。
チョウセキが目を見張った。しばらく黙って石を見ていた。
「……これは」
「船代だ」
ゴロウが短く言った。
チョウセキが石を手に取った。指で転がした。目が細くなった。
「……珍しいものを持っている」
「文句があるか」
「ない。むしろ釣りが出る」
リンシが静かに笑った。
「では決まりですね」
◆
俺はリンシを見た。
「お前も行くのか」
「商人ですから。倭との交易の足がかりになるかもしれません」
「……商売のためか」
「それだけではないですが」
リンシが微笑んだ。それ以上は言わなかった。
ビャクレンがリンシを見た。
「帰りは昆布でも仕入れるといいわ。あちらには良いものがある」
リンシが目を丸くした。
「昆布……ですか?倭にそのようなものが」
「ええ。きっと売れますよ」
リンシがしばらくビャクレンを見ていた。それから懐から手帳を取り出した。
「……詳しく聞かせてもらえますか」
チョウセキが呆れた顔で言った。
「お前ら、今から商売の話をするのか」
ビャクレンが笑った。
リンシも笑った。
俺は二人を見ていた。なんだかよく分からない気分だった。
◆
船に案内されながら、俺は甲板を見回した。
船乗りたちが忙しく動いていた。綱を引く者、帆を確認する者。その中に一人、黙々と綱を扱っている女がいた。
その横顔を見た瞬間、俺は足が止まった。
(……まさか)
「ソンオン」
女が振り向いた。
俺の声を聞いて固まった。
ビャクレンが俺の隣にいた。ソンオンを見た瞬間、息を呑んだ。
「……ソンオン?」
ソンオンの目が大きくなった。ビャクレンを見た。
誰も動かなかった。
波の音だけが聞こえた。
ソンオンの目に何かが滲んだ。唇が少し震えた。だが声が出なかった。ビャクレンも動けなかった。ただ互いを見ていた。
しばらくして、ソンオンがようやく口を開いた。
「生きていたのか」
声が掠れていた。
チョウセキが首をひねった。
「知り合いか?この女、岸に流れ着いていたのを拾ったんだが」
誰も答えなかった。
答える者がいなかった。
◆
ボクシが俺を呼んだ。
「ビャクレンは死んだことにする。だが証が必要だ。何かないか」
俺は少し考えた。
ソンオンと目が合った。
俺は頭を掻いた。顔が熱くなるのを感じた。
「……以前、崖でお前から下着を剥ぎ取ったことがある。あれを証として使った」
ソンオンが一瞬固まった。それからゆっくりと目を細めた。
「……あの時の、ね」
笑い出した。
ビャクレンが首をひねった。
「下着が証になるんですか」
「なった」
俺はそれ以上説明しなかった。
「ならば」
ビャクレンが静かに言った。
その手が衣の胸元に入った。
一同が固まった。
ビャクレンが衣の前をはだけた。白い肌が月明かりに浮かんだ。豊かな双丘が露わになった。その間から赤いそれを引き抜いた。衣を閉じた。一連の動作が淀みなかった。まるで何でもないことのように。
ビャクレンがそれをユウに差し出した。
「これで十分ですか」
誰も動かなかった。
ゴロウが顔を背けた。フコウシが前を向いたまま微動だにしなかった。コウビの顔が赤くなった。モウシュウシは完全に固まっていた。テイゴは無言で天を仰いだ。ボクシが小さく咳払いした。
アイの顔が真っ赤だった。ビャクレンを見ていた。ビャクレンがアイを見た。二人の目が合った。
アイが顔を背けた。
俺はビャクレンの手からそれを受け取った。
「……十分だ」
ビャクレンがまた微笑んだ。
◆
一行が船に乗り込んだ。
綱が解かれた。船がゆっくりと動き出した。
俺は岸に立って見送った。
ビャクレンとソンオンが船首に並んで立っていた。
二人は海を見ていた。しばらく黙っていた。
それからビャクレンがソンオンを見た。
ソンオンがビャクレンを見た。
二人がお互いの名前を呼んだ。この世界では誰も知らない名前を。
二人が抱き合った。
岸が遠くなっていく。船の輪郭が小さくなっていく。
アイが俺の隣に来た。何も言わなかった。
俺も何も言わなかった。
二人で船が見えなくなるまで立っていた。
波の音だけが続いていた。




