35話 信者の中へ
ギエイたちが出発する前に、俺はボクシと二人で話した。
夜の陣の端。焚き火が遠い。声が届かない場所を選んだ。
「ビャクレンを逃したい」
俺は正直に言った。
ボクシが黙った。しばらく焚き火の方を見ていた。
「……リュウロウシ将軍の四万が来れば、南燕は終わりだ」
「そうだ。トクが死んだ。有力な将軍も魏との戦いで討たれた。南燕に軍を指揮できる者はいない。信者の軍は士気だけで動いているが、いずれ崩れる。リュウロウシ将軍は苦戦するだろうが、最終的には勝つ」
ボクシが少し俺を見た。
「崩れた後、ビャクレンは建康に護送される」
「カンゲンがそう命じる。間違いない」
「そうなる前に逃したい。死んだことにして」
ボクシがまた黙った。今度は長かった。
「……お前、ビャクレンに会ったのか」
俺は答えなかった。
ボクシは追及しなかった。
「取り込まれたとは思わない。だがお前の中に何かある。それは分かる」
「……ああ」
「理由はそれだけか」
「それだけではない」
俺は顔を上げた。
「太平道を潰しても、別の信仰が生まれるだけだ。人が苦しんでいる限り、救いを求める者は出てくる。カンゲンがビャクレンを建康に連れていけば、太平道は政治に利用される。そうなれば信者がまた死ぬ。だったら政治と関わらせず、どこか遠くで残す方がいい」
ボクシがしばらく黙っていた。
それから少し表情が変わった。
「……お前にしては、よく考えているな」
「失礼なやつだ」
「褒めているんだ」
ボクシが珍しく口の端を上げた。
「チンピラが政治を語るとは思わなかった」
「俺はもうチンピラじゃない」
「そうだな」
ボクシが静かに頷いた。それから地図を広げた。
「どうやって逃す」
「……そこまで考えていない」
ボクシが小さく息を吐いた。
「お前らしいな」
「海に逃せ」
「海」
「東に倭という島国がある。遠い。追っては来られない。チョウセキの船で運べ。あいつなら口が堅い」
倭。
聞いたことのない名前だった。島国。東の海の向こう。
(……もしかして日本か)
確信はなかった。勉強してこなかったから分からない。だがなんとなく、そんな気がした。
「分かった」
「いいのか。命令違反だ。俺も共犯になる」
「だが……」
ボクシが地図をたたんだ。
「お前が間違っているとは思わない。それだけだ」
それからボクシが一つ聞いた。
「ビャクレンは従うと思うか」
俺は少し考えた。考えたが、答えはすぐ出た。
「従う」
「根拠は」
「勘だ」
ボクシが俺を見た。
「……勘か」
「お前は信用しないだろうが」
「いや」
ボクシが静かに言った。
「お前の勘はこれまで外れたことがない。北府に入った時から知っている」
俺は少し驚いた。ボクシがそんなことを言うとは思っていなかった。
「だったら最初から聞くな」
「確認したかっただけだ」
ボクシが立ち上がった。
「行くぞ。ギエイに話をつける」
◆
出発前、俺はギエイを呼んだ。
「本当の任務を話す」
ギエイが俺を見た。
「城内の情報収集だけではない。ビャクレンに接触して、城外に連れ出せ。死んだことにして船に引き渡す。チョウセキに話はつけてある」
ギエイが少し間を置いた。
「……難易度が高い任務ですね」
「断っていい」
「受けます」
迷いがなかった。
「ただ一つ確認させてください。ビャクレンが拒否した場合は」
「説得しろ。それでも駄目なら引き上げろ」
「分かりました」
ギエイが四人の方へ向かった。四人を集めた。俺には声が届かなかったが、四人の顔が順番に変わっていくのが見えた。フコウシが静かに頷いた。コウビが「分かった」と低く言った。モウシュウシは目を見開いた。テイゴは無言で頷いた。
五人が夜の闇に消えていった。
◆
城内は思ったより動いていた。
信者が続々と入ってくる。老いた者、若い者、子を抱えた母親。みな同じ目をしている。縋るような目だ。
ギエイと四人は信者に紛れて城門をくぐった。ギエイは周囲を素早く確認しながら歩いた。兵の配置。城門の構造。食糧庫の位置。全部頭に入れていく。
広場に人が集まっていた。
口移しの儀式だった。
ビャクレンが座っていた。一人一人の前に膝をついて、米を口移しで渡している。白い衣。長い黒髪。静かな顔をしていた。
フコウシが隣のコウビに小声で言った。
「……あれがビャクレンか」
「ああ」
コウビが低く答えた。普段の大声が鳴りを潜めていた。
モウシュウシは顔が赤くなっていた。
テイゴは無言だった。だが目が変わっていた。いつもの寡黙とは違う何かがあった。
ギエイが四人を見回した。
「惚れるな」
「惚れていない」
コウビが小声で言ったが、声が少し上ずっていた。
ビャクレンが老いた男の前に膝をついた。そっと米を口移しで渡した。男が目を閉じた。涙が頬を伝った。ビャクレンは次の者の前へ移った。表情は変わらなかった。だが目が優しかった。
フコウシが静かに言った。
「……この人を建康に送るのか」
誰も答えなかった。
答える必要がなかった。
四人の目が変わった。任務の意味が腹に落ちた瞬間だった。
◆
夜になった。
ギエイと四人は物陰に潜んでいた。接触の機会を待っていた。
その時、気配がした。
ギエイが手を上げた。四人が止まった。
闇の中から人影が現れた。一人ではない。複数だ。
先頭に立つ小柄な人影がギエイたちを見た。
目が合った。
その目は冷たかった。品定めするような目ではない。もう判断が終わっている目だ。
「信者ではないですね」
静かな声だった。女の声だった。
「どこから来ましたか」
また静かな声。だが周囲の人影が少しずつ動いていた。
ギエイと四人は背中合わせになった。
両者が動かなかった。
夜の静寂の中で、互いの息だけが聞こえた。




