34話 潜入
城壁の上から、東晋の旗が見えた。
先鋒だ。二千ほどか。
私は手すりに手をかけたまま、その旗を見ていた。
約束を破って来た。三年の不可侵。トクが交わした約束だ。だが東晋はそれを破った。カンゲンが破らせた。信者たちはそれを知っている。だから怒っている。だから死ぬつもりで出ていく。
「ビャクレン様」
侍女が来た。
「また信者が城門を出ようとしています。止めますか」
私は少し間を置いた。
「……止めない」
「ですが」
「止める資格が私にあるか」
侍女が黙った。
私には分からなかった。50万が死んだ。魏の連環馬に踏み砕かれた。私が燕に入ったから、トクを取り込んだから、信仰の国を広げようとしたから、魏が動いた。
救済を叫びながら、信者を死に追いやった。
それが正しかったのか。今でも分からない。
◆
トクのことを思った。
子がいる。顔はトクに似ていた。私には似ていない。私はこの世界で産んだが、母親になった実感がまだない。
トクとの関係は何だったのか。信者と教祖の延長線上だったと思う。トクは私を崇めていた。私はトクを利用していた。愛だったのか。今となっては分からない。
それよりもなぜ、あの夜のことを忘れられないのか。
ユウ。
一夜だけだった。それだけだ。だがあの感触が、声が、今でも消えない。なぜか。同じ転生者同士だったからかもしれない。この世界で私と同じ場所から来た人間。それだけのことかもしれない。
だがそれだけではない気がする。
自分でも分からなかった。
◆
今日も信者が入城してきた。
遠くの村から歩いてきた者もいる。老いた者もいる。子供を連れた母親もいる。みんな私を見る。ビャクレン様、と呼ぶ。
私は一人一人の前に座った。口移しで米を渡す。毎日続けている。いつから始めたのか。いつまで続けるのか。
分からない。
ただ続けている。続けなければ私は何者でもなくなる。そんな気がしていた。
伝令が来た。
「東晋の先鋒の将軍が判明しました。リュウユウという千人将です」
手が止まった。
「……リュウユウ」
「はい。北府の将です。白紙将校と呼ばれているとか」
白紙将校。あの男だ。
(ユウ)
会いたい。
その感情が出てきた瞬間、私は自分に驚いた。何を考えているのか。あの男は今、私がいる城を攻めに来ている。会いたいとは何だ。
だが感情は消えなかった。
消えなかった。
◆
東晋の陣では膠着が続いていた。
カムキが来た。
「正面からでは埒が明かない。あいつらは止まらない」
「分かっている」
俺は地図を見ていた。下邳の城壁は厚い。信者の数は減らない。むしろ増えている。城外で戦っている者がいる一方で、城内に入り込む者がいる。
その時ボクシが口を開いた。
「一つ手がある」
「何だ」
「信者が今も城内に入り込んでいる。俺たちも紛れ込める」
カムキが眉をひそめた。
「潜入か」
「そうだ。城門が完全に閉じていない。信者の流れに乗れば入れる可能性がある。城内の様子を掴めれば次の手が打てる」
「誰が行く」
「ギエイが適任だ。それと新しい四人を連れて行け」
カムキが首をひねった。
「なぜ新顔を」
「古参は南燕との戦いで顔を見られている可能性がある。新顔の方が信者に紛れやすい」
フコウシ、コウビ、モウシュウシ、テイゴの四人が顔を上げた。フコウシが静かに言った。
「やります」
コウビが大きく頷いた。
「任せろ」
モウシュウシが目を輝かせた。テイゴは黙って頷いた。
「リュウロウシ将軍の後続四万が来るまで待つつもりはない。合流まで時間がかかりすぎる。その間も兵が削られ続ける」
「長期化は避けたい」
カムキが言った。
「賛成だ。やってみろ」
俺も頷いた。
「ギエイ。頼む」
「はい」
ギエイが立ち上がろうとした時、アイが黙っているのに気づいた。
いつもならもう何か言っている。それが今日は黙っている。地面を見ている。
「アイ」
「……何」
「どうした」
「何でもない」
そう言ったが、顔が違った。
俺には分かった。ビャクレンのことを考えている。支援で従軍しているアイは、城の中に誰がいるか知っている。
だが俺は何も言えなかった。
アイも何も言わなかった。
ギエイと四人が静かに立ち上がり、夜の闇に消えていった。




