33話 抵抗
下邳への道は沢が多かった。
以前、広固へ向かう際に通った地域だ。地形は頭に入っている。だが改めて見ると、沢と泥濘が道のあちこちに広がっていた。
ギエイが戻ってきた。
「前方にも沢があります。馬は足を取られます」
「騎馬は使えないか」
「難しいと思います」
モウチョウが舌打ちした。
「この地形では騎馬の出番がない」
「歩兵の戦いだ」
ボクシが静かに言った。
「覚悟しておけ」
俺は周囲を見渡した。
湿った土。細い水路。足元が悪い。この地形で二千の兵を動かすのは骨が折れる。だが敵も同じ条件だ。
◆
一日進んだところで、斥候が戻ってきた。
「前方に敵の集団がいます。数は……相当います」
「どのくらいだ」
「五千以上かと。旗はありません。ただ……」
ギエイが少し間を置いた。
「普通の兵ではありません。太平道の信者です」
部隊が静まり返った。
五十万が魏の連環馬に討たれた。それでもまだこれだけいる。信者の数の底が知れなかった。
「どんな様子だ」
「目が違います。怒っています。ただの怒りではない。……東晋の旗を見て叫んでいました」
「何と叫んでいた」
「約束を破った裏切り者、と」
誰も何も言わなかった。
◆
衝突は突然だった。
信者の集団が丘の向こうから現れた。武器はまちまちだ。槍もある。農具もある。だが全員が走っていた。叫びながら走っていた。
「約束を破った東晋め!」
「裏切り者!人でなし!」
「三年の約束はどこへ行った!」
声が波のように押し寄せてきた。死を恐れていない目だった。憎しみだけで動いている目だった。
「迎え撃て!」
カムキが号令を飛ばした。
カムキの千人隊が前に出た。激突した。
だが信者の集団は止まらなかった。普通の兵なら怯む場面でも退かない。仲間が倒れても構わず前に出てくる。カムキの隊の中央が押された。左翼が崩れかけた。
「カムキ!」
俺は棍棒を握った。
「ドウサイ、ドウキ、前へ!カムキの左翼を支えろ!」
俺の隊が動いた。崩れかけたカムキの左翼に割り込んだ。ドウサイが盾のように立ちはだかった。ドウキが石礫を連射した。
それでも信者は押してくる。
俺は棍棒を振るいながら前に出た。一人、また一人と打ち倒した。だが後ろからまた来る。次々と来る。
(こいつらは怖くないのか)
怖くないのではない。怖さより憎しみが勝っているのだ。
「いったん退け!」
俺は叫んだ。
二千の兵が後退した。信者の集団は追ってきたが、ある地点で止まった。それ以上は追ってこなかった。
◆
丘の裏に退いた。
カムキが来た。鎧に血がついていた。
「助かった」
「無事か」
「俺はな。だが……三十人近くやられた」
カムキが地面を見た。珍しく表情が暗かった。
「普通の戦いではない。あいつらは死ぬつもりで来ている」
「分かった」
俺は黙って前方を見た。信者たちがまだ遠くで叫んでいる声が聞こえた。
(約束を破った裏切り者)
その言葉が頭の中で繰り返されていた。
ボクシが来た。険しい顔をしていた。
「損害の確認が終わった。カムキの隊が三十二。俺たちの隊が十八。合わせて五十だ」
「最初の一当たりでそんなにか」
「しかも相手はまだ崩れていない。信者はあの数だけではないかもしれない。次々と補充される可能性がある」
俺はボクシを見た。
「ボクシ。お前はどう見る」
ボクシが少し間を置いた。それから静かに言った。
「最初からこうなると分かっていた者がいる」
「カンゲンか」
「そうだ」
ボクシが地図を広げた。
「考えてみろ。太平道の信者が五十万討たれた。だがそれは魏がやったことだ。東晋への恨みではない。ところがここで東晋が三年の約束を破って攻め込んだ。どうなる」
「信者の憎しみが東晋に向く」
「そうだ。しかも弱り切っているはずの南燕が、憎しみで凝り固まった集団に変わる。普通の軍より厄介だ。死を恐れない兵ほど始末に悪いものはない」
俺は黙って聞いていた。
「カンゲンはこれを見越していた。太平道の信者がどれだけ東晋を憎むか。その中に北府の先鋒を突っ込ませれば何が起きるか。全部計算の上だ」
「北府を消耗させるためか」
「そうだ」
ボクシが地図を指で叩いた。
「北府がここで削られる。一戦ごとに兵が減る。帰る頃には使い物にならないくらい消耗している。そうなればカンゲンが北府に手を伸ばしやすくなる。シャアン様が亡くなった今がカンゲンにとって好都合だ」
カムキが傍らで聞いていた。拳を握っていた。
「汚い手を使う」
「汚いが、巧い」
ボクシが静かに言った。
「俺たちが悩んでいる間にも兵は減る。怒っている間にも兵は減る。カンゲンはそれを狙っている」
俺は遠くを見た。
信者たちの叫び声がまだ聞こえていた。
「なあ、ボクシ」
「何だ」
「あの信者たちは間違っていないな」
ボクシが俺を見た。
「東晋が三年の約束を破った。弱った国に止めを刺しに来た。あいつらが怒るのは当たり前だ」
「……そうだな」
「カンゲンはこの憎しみを利用した。あいつらの怒りをうまく使って北府を削る道具にした」
俺は地面を見た。
「シャアン様が命を懸けて守ろうとした東晋が、カンゲンのせいであんな目で見られている」
誰も答えなかった。
答えられるものがいなかった。
信者たちの声はまだ続いていた。
約束を破った裏切り者。
俺はその言葉を振り払えなかった。カンゲンへの怒りと、自分がここにいることへの後ろめたさが、胸の中でぐるぐると回っていた。
だが立ち止まるわけにはいかない。
「ボクシ。次の手を考えろ。正面からでは消耗するだけだ」
「分かっている。少し時間をくれ」
ボクシが地図に向かった。
俺は棍棒を握り直した。
カンゲンの企みに乗せられたまま終わるつもりはなかった。だがここを切り抜けなければ何も始まらない。
まだ終わっていない。それだけを胸に刻んだ。




