32話 破約
千人将の辞令が届いた翌日、京口の一角に屋敷が与えられた。
大きくはない。だが門があり、庭があり、兵が詰める部屋が並んでいた。前の持ち主は誰だったのか知らない。壁に染みがあった。床板が一枚軋んだ。それでも俺には十分すぎた。
「隊長。ここが拠点になるんですか」
ドウキが庭を見回しながら言った。
「そうだ」
「広いですね」
「お前の村の家より広いか」
「比べものになりません」
ドウキが笑った。
ボクシが部屋の一つを覗いた。
「参謀部屋はここでいい。地図を広げる机が必要だな」
「勝手に決めるな」
「誰かが決めなければ動かない」
言い返す気になれなかった。
アイが井戸を確認していた。モウチョウが馬小屋の広さを測っていた。ギエイはすでに屋敷の周囲を一周して戻ってきていた。
「東側に死角があります。夜は見張りを一人置いた方がいい」
「分かった」
みんなが動いていた。俺が何も言わなくても、それぞれが自分の仕事を見つけていた。
俺は門の前に立って、屋敷を眺めた。
チンピラだった男が、千人将になって屋敷を持った。
笑えるような、笑えないような気分だった。
◆
翌朝、屋敷に人が集まり始めた。
見慣れた顔がある。ドウサイ、ショカツ、シャカイ、ドウキ、カンシュク、モウチョウ、ギエイ、ボクシ。南燕の戦いから共に戦ってきた面々だ。
見慣れない顔が四つある。
一人目は細身の男だった。背筋が伸びている。目が真っ直ぐだ。
「フコウシです。よろしくお願いします」
短く言った。それだけだった。口数が少ない男だと分かった。
二人目は大柄な男だった。日焼けした顔に白い歯が光った。
「コウビです!よろしく頼む!」
声が大きかった。屋敷が揺れそうだった。
三人目は若かった。俺より年下に見える。目が輝いていた。
「モウシュウシです。精一杯やります」
向上心が顔に出ていた。
四人目は言葉がなかった。ただ深く頭を下げた。
「……テイゴだ」
それだけだった。体格はドウサイに負けないほどだ。寡黙な男だと分かった。
俺は全員の前に立った。
千人の兵が屋敷の前に並んでいた。これだけの数を率いるのは初めてだった。
「俺はリュウユウだ。白紙将校と呼ばれている男だ。一つだけ言う」
全員が俺を見ていた。
「俺は誰も無駄死にさせない。それだけだ」
誰も何も言わなかった。
ボクシが横で小さく頷いた。
◆
千人隊の編成が終わった三日後、建康から使者が来た。
リュウロウシが使者を引見した。俺も同席した。
使者が文書を読み上げた。
南燕討伐の出陣命令だった。
「南燕は魏の侵攻により広固を失い、下邳へと逃れた。王トクは病死し、弱体化した残兵が下邳に籠もるのみ。東晋はかつて南燕と三年の不可侵を約したが、この乱れた情勢に鑑み、今こそ南燕に止めを刺すべき好機とみなす。下邳を攻略し、南燕を討滅せよ。北府からリュウユウ千人将の千人隊を先鋒として指名する」
使者が去った後、部屋が静まり返った。
「シャアン様の喪も明けていない」
カムキが低く言った。
「それでも命令か」
「勅令だ」
リュウロウシが静かに言った。
「断れない」
俺は黙っていた。シャアンの位牌がまだ屋敷にある。香の煙がまだ漂っている気がする。その中でもう次の戦への命令が来た。
「三年の約束を破るのか」
ボクシが静かに言った。誰に向けた言葉でもなかった。
「カンゲンの判断だ」
リュウロウシが答えた。
「弱った相手を踏みにじる。それがカンゲンのやり方だ」
「なぜ俺の千人隊が先鋒なんですか」
「カンゲンだろう」
リュウロウシが静かに言った。
「シャアン様が亡くなったこの時を狙って、お前を前線に立たせる。使い潰すつもりかもしれん。あるいは……」
リュウロウシが言葉を切った。
「戦功を立てさせて、その後に遠ざける。どちらにしてもカンゲンの思惑がある」
◆
翌日、追加の命令が届いた。
千人隊だけでは戦力が不足するため、カムキの千人隊も同行させる。
カムキが俺のところへ来た。
「また一緒か」
「俺も驚いている」
「お前がいると面倒だ」
「俺もそう思う」
カムキが鼻を鳴らした。だが目が笑っていた。
カムキの隣に見慣れない男がいた。細身で目つきが鋭い。
「俺の副官だ。リュウイという」
リュウイが俺を見た。品定めするような目だった。
「聞いていますよ。カクレンを退けた千人将。白紙将校とも呼ばれているとか」
「そうだ」
「俺はカムキ将軍の副官だが、実力では誰にも負けない」
ボクシが横で小さく息を吐いた。
「威勢がいいな」
「事実を言っているだけです」
カムキが苦笑した。
「こういう男だ。悪く思うな」
「思っていない」
俺はリュウイを見た。目つきは悪いが、芯がある。嫌いではなかった。
◆
夜、ボクシが俺を呼んだ。
「話がある」
二人で地図を広げた。
「南燕の現状を整理する」
ボクシが地図の上で指を動かした。
「南燕はもう広固にいない。魏に落とされ、下邳へ逃れた。トクは病死した。今の南燕は弱い王を担いだ残兵が下邳に籠もっているだけだ。俺たちの目標はその下邳だ」
「落とせるか」
「兵力差は圧倒的だ。籠城されても時間をかければ落ちる。問題はそこではない」
「何が問題だ」
ボクシが少し間を置いた。
「太平道の女教祖、ビャクレンのことは知っているか」
俺は表情を変えないようにした。
「名前は聞いたことがある」
「南燕の残兵と共に下邳にいる。弱王を連れて逃れたという話だ。信徒がまだついている可能性がある」
「……そうか」
「信徒が籠城に加わればそれだけ長引く。ただの軍事拠点ではなく、宗教的な結束が加わる。厄介だ」
ボクシは気づいていない。俺とビャクレンの間に何があったか、知らない。だからこそ淡々と言える。
「それと、もう一つ考えておくべきことがある」
「何だ」
「ビャクレンをどう扱うか、だ。ただの南燕の残党として処分するのか。それとも別の道があるのか。攻める前に決めておかないと、城が落ちた後に混乱する」
俺は地図を見たまま黙っていた。
下邳。ビャクレンがいる城。
俺が攻める城だ。
「……考えておく」
「そうしろ。お前が先鋒だ。最初に城門を破るのはお前の隊になる」
ボクシが地図をたたんだ。
「ボクシ」
「何だ」
「助かる」
ボクシが少し間を置いた。
「礼はいい。その代わり、死ぬな」
それだけだった。
俺は一人になった。
ビャクレンは下邳にいる。俺が攻める城にいる。
三年の約束を破って攻める。弱った国に止めを刺しに行く。
それがカンゲンの命令だ。
シャアンの香の煙がまだ消えていない気がした。
それでも前を向くしかなかった。まだ終わっていない。それだけは確かだった。




