25話 襄陽の戦い② 夜襲
カクレンは軍営の中で横になっていた。目が開いたまま天井を見ていた。
今日の戦を反芻していた。北府の兵は強かった。野戦では互角だった。これほど手応えのある相手は久しぶりだった。
だがそれよりも、あの男が頭から離れなかった。
五百人将。たった五百人の指揮官だ。東晋の軍の中では取るに足りない地位だ。それなのに、あの男がいる場所だけ空気が違った。
(まるであの男と同じ匂いがする)
ケイ。
その名前が頭に浮かんだ。
魏の王。カクレンを女に戻した男。剣を使う男だった。戦場でカクレンと相対した時、あの男も同じ目をしていた。怒りでも恐怖でもなく、ただ静かに相手を測る目だ。
ケイとリュウユウは似ていない。体格も武器も戦い方も違う。だがその目の奥にある何かが、どこか重なった。
(厄介だ)
カクレンは天井を見たまま考えた。
今のリュウユウはまだ五百人将だ。兵も少ない。指揮する軍も小さい。今なら潰せる。このまま放置すれば、いつかケイのような存在になる。
本能がそう告げていた。
(早々に退場してもらう)
カクレンは起き上がった。
鉄鞭を手に取った。金魔法を纏わせる。金色の光が暗闇の中でかすかに輝いた。
軍営の外に出た。
夜風が頬に当たった。月が出ていた。漢水が月光を反射して光っていた。
気配は読める。経験が教えてくれる。
あの方向だ。
カクレンは手勢に待機を命じ、1人闇の中へ消えていった。
◆
俺は眠れなかった。
軍営の外に出て、漢水を眺めていた。対岸の襄陽に灯りが見える。後秦の陣も暗い。今夜は静かだ。
カクレンのことを考えていた。
あの鉄鞭の重さが、まだ右肩に残っていた。アイが治癒をかけてくれたが、骨に響く感覚は消えていなかった。
左の振りが右より一息遅い。
それだけが、今日一日で掴んだことだった。次はそこを突く。だが次があるかどうかも分からなかった。あの強さを前にして、次が来る前に終わる可能性もあった。
草を踏む音がした。
振り返った。
暗闇の中に人影があった。
月明かりに黒い鎧が浮かんだ。
(カクレン)
俺は棍棒を掴んだ。叫ぼうとした。
その瞬間、カクレンが動いた。
速かった。昼間より速い。夜の闇の中で金色の光が走った。
「くっ……!」
俺は横に跳んだ。鉄鞭が空を切った。紙一重だった。
「起きろ!夜襲だ!」
俺は叫んだ。
陣の中が一気にざわめいた。焚き火が揺れた。兵たちが飛び起きる音がした。
カクレンは俺だけを見ていた。周囲の兵には目もくれない。最初から狙いは俺だけだった。
ドウサイが飛び出してきた。斧を構えている。
「隊長!」
「来るな!」
間に合わなかった。ドウサイがカクレンに向かった。カクレンが右の鉄鞭を振った。ドウサイが斧ごと吹き飛んだ。
「ドウサイ!」
ショカツが大剣を抜いて突っ込んだ。カクレンが左の鉄鞭で払った。ショカツが地面に叩きつけられた。
二人とも起き上がれなかった。
カクレンがまた俺を見た。
静かな目だった。昼間と同じ目だ。感情がない。ただ仕事をしているだけという目だった。
俺は棍棒に魔力を全力で流した。身体強化を限界まで上げた。体が軋む感覚がした。
踏み込んだ。
カクレンが両の鉄鞭を構えた。来い、と言っているような立ち方だった。
俺は右から入った。カクレンの左の振りが右より遅い。左側から来る一撃をかわせれば次が見える。
カクレンが右の鉄鞭を振った。俺は棍棒で受けた。腕全体に痺れが走った。それでも弾かれなかった。押し返した。
カクレンの目が微かに動いた。
俺が左に回り込もうとした瞬間、カクレンの体が回転した。右の鉄鞭が引き戻される。そのまま左の鉄鞭が来た。
読んでいた。だが速かった。
左肩に直撃した。
体が浮いた。地面に叩きつけられた。視界が揺れた。
起き上がろうとした。腕が言うことを聞かなかった。
カクレンが近づいてくる。鉄鞭を持ち上げた。
その瞬間、矢が飛んできた。
カクレンが体を捻った。矢が鎧を掠めた。
カンシュクだ。
続けてドウキの石礫が飛んできた。カクレンが鉄鞭で弾く。また矢が来た。また石礫が来た。
カクレンが舌打ちした。初めて感情らしきものが出た。
「退け!全員退け!」
ボクシの声が飛んだ。
北府の兵が動き始めた。整然とではなく、ただ後退していく。ボクシが陣形を整えながら退かせている。
俺はギエイに肩を借りて立ち上がった。左肩が動かなかった。
カクレンはそれ以上追ってこなかった。矢と石礫の牽制が続く中、静かに暗闇の中へ消えていった。
◆
夜が明けた。
五百人隊の損害を確認した。
死者、百四十七名。重傷者、九十二名。
半数以上が失われた。
ボクシが数字を読み上げた。その声に感情がなかった。感情を殺して読んでいるのだと分かった。
俺は並んだ生き残りの顔を見た。疲れ果てた顔ばかりだった。怪我をしている者も多い。それでも立っていた。
「すまなかった」
俺は言った。
誰も何も言わなかった。
ドウサイが包帯を巻いた腕で立っていた。ショカツが片膝をついていた。カンシュクが弓を持ったまま目を伏せていた。ドウキが石礫を握ったまま地面を見ていた。
アイが俺の左肩に手を当てた。光が滲んだ。骨に響く痛みが少し引いた。
「ありがとう」
「礼はいい」
アイは短く言ってドウサイのところへ移った。
西府の陣の方から笑い声が聞こえた。
「北府の精鋭とやら、女将軍1人相手に壊滅させられたそうだな」
ハンリョウの声だった。
「今は堪えろ」
カムキが俺に声を掛けた。
俺は黙って堪えた。
ハンリョウの笑い声が続いた。シュカは何も言っていなかった。遠くからこちらを見ているだけだった。その目が何を考えているのか、俺には読めなかった。
リュウロウシが来た。五百人隊の前に立った。生き残りの顔を一人一人見た。それから俺を見た。
「次はどうする」
俺は答えた。
「五百人隊はもう動けません。俺一人で行きます」
「馬鹿なことを言うな」
ボクシが即座に言った。
「馬鹿じゃない。あいつと正面から当たれるのは俺だけだ」
「一人で勝てるのか」
「……分からない。だが俺が引き付けている間に、囲む方法を考えてくれ」
ボクシが黙った。
リュウロウシが少し間を置いてから言った。
「今日は休め。明日のことは明日考える」
それだけだった。
俺は漢水を見た。
川が静かに流れていた。昨夜の夜襲が嘘のように穏やかだった。
対岸の襄陽の城壁が朝日を受けて白く光っていた。




